写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

相模川の「ヤツボ」 相模原市大島<神奈川考②-15>  

私事で申し訳ありませんが、相模川の水で産湯をつかった友人Yくんが亡くなり3年が経ちます(いわば巡礼です)。1969年からの彼との付き合い以前は、小田急線でいえば町田ぐらいまでがぼくの「シマ」でした。自宅に電話すると、お母さんが出てよく「上京しています」という返事にびっくりしたものでした。相模川中流の「上溝」「田名」あたりは水運が盛んな時代には賑わったところでしたが、いまでは農地が宅地化と工場化がすすみ複雑な景観を見せています。今回はその少し上流「大島」の、河岸段丘下方に湧きだす「ヤツボ」が残っているので訪れました。「大島中ノ郷のヤツボ」「大島水場のヤツボ」「古清水上場のヤツボ」の3個所です。湧き水を一坪ぐらいの窪地に溜め、炊事、洗濯などに日常的に使ったそうですが、現在では地域の生活とははなれ「保存会」の方々が維持しているのがやっとのようでした。「ヤツボ」の言葉の由来は、谷津(谷戸、谷)だと思います。

相模川大島001
秋はやはり菊、Yくんにささげよう。

相模川大島002
河川敷を戦後に開墾したものと思われる(昭和32年建立の「開田記念碑」がある)。

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新旧小倉橋(道志、宮が瀬方面へ)。

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大島水場のヤツボ。

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大島水場のヤツボすぐ下、沢上からの水の合流部。

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老婦人の庭。

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農業用水か?取水口。

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ここは「ヤツボ」ではないが、じんわりと水がしみ出している。

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大島地区の氏神「日日神社」、ケヤキ、ヒマラヤスギ、クスノキ、サクラ、タブ、カゴノキなどが大木化して、新任の神主さんが剪定の予算がなくて頭を抱えていました。

相模川大島010
古清水上場のヤツボ
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神田古本まつり 神保町<東京TOKYO④-4>  

7月に神保町の韓国書店「チェッコリ」でアン ソンミン氏のパンソリを聴き&見てきましたが(既報)、きょうはその続編でした。同店は古書街の真ん中にあり、辺りは10/27から「神田古本まつり」をやっていて、きょうから3連休 さいごの盛り上がりを見せているようでした。午前中はあまり人は出ていませんでしたが、午後にはけっこうな人出です。「5,000円以上お買い上げの方は送料無料」といったサービスもしているので昔のように風呂敷包みを抱えてという人は見かけません。かつては神保町交差点から西側(靖国側)はあまり古書店のない地域でしたが、現在はそちら(神保町~専大前)の方が賑わっています。

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神保町交差点角(岩波信山社:昨年11月に倒産)に出店した書店の「書き割り」的レジ。

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半蔵門線神保町駅は本(国立劇場のある半蔵門駅は緞帳の3色=定式幕カラー)でしたね。

二週間ぶりの晴れ間に 厚木七沢<神奈川考②-14>  

真夏のような広島から帰ってきたのが13日(金)、新横浜駅に着くと雨そして寒い。それから2週間、間に台風21号襲来をはさんで寒い雨が続いた。持病の腰痛も悪化して動くのも大変、きのう(/26木)ようやく晴れたのでリハビリを兼ねて厚木の七沢に向かった。わが家のほうから見る大山の稜線の美しさに見とれ、真っ正面の富士が雪化粧、でも気温は徐々に上がってきた。日光ではこの週末から紅葉本番ということだが、箱根・丹沢あたりでは北関東や東北のような息を呑むほどの紅葉は見られない、況んや厚木においてをや。センダンは青々と繁っている。でも、トチが黄葉しイイギリが赤い実を沢山つけ秋が一歩々々深まりつつある。
つぎは亡くなったYくんを偲んで、相模川を自転車で走ってみよう、沈下橋はもうないだろうな・・・。


七沢の秋001
センダン(栴檀)

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トチノキ(栃)

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イイギリ(飯桐)

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アケビ(通草)

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クサギ(臭木)

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米軍写真外辺部<アジア太平洋戦争⑦-8>  

またまた前々々作「380m(旧)日本銀行広島支店 袋町」の米軍撮影の写真に戻ることになりますが、ご勘弁を。「被服廠倉庫」は右上比治山の南すぐ、「福島地区原爆犠牲者慰霊之碑」は平和大通り(写真右端の道か?)の手前側、「日本麻紡績給水塔」は慰霊碑からさらに西へ行った西広島(己斐)、「逓信省電気試験所広島出張所」は横川駅の北口近く 改修して検査場として2011年まで残っていたが現在はスーパー 一角に壁面と敷石を使ったモニュメントと案内板がある、そのすぐ北に「久永金紙押紙工場」が改修・耐震工事などをして20数名の従業員を抱えて活躍していました、最後はその工場から東へ(広島駅方向へ)川を渡りアストラムラインをくぐってまた川を渡ったところの安楽寺、本堂が被爆建物だが被爆時大きな枝が本堂を突き抜いたというイチョウの炭化した傷痕を載せました。

米軍写真外辺001
2670m広島陸軍被服支廠倉庫1~4号棟(出汐)までが残っている。「L」字形に配置され「L」の縦棒にあたる部分が1~3号棟(県が管理)、横棒が4号棟(財務局が管理)、各棟とも100m近くある長大なレンガ倉庫です。劣化が激しいため倉庫の中には入れませんが県庁で鍵を借りれば見学可能です。

米軍写真外辺002
その内部。軍服や軍帽などの倉庫。一般市民国民が窮乏生活を強いられ、「逓信病院焼け跡」で救護・治療していた医師も患者も丸裸同然だったが、軍隊は意外とあらゆる物資を溜め込んでいた。蜂谷院長の「ヒロシマ日記」・・「工兵隊にはたくさんな物がある。無数の鋸、鉈、航海ランプ(略々)毛布の山、軍服の山、シャツ、ズボンの山、被服の山々の間に皮革品」「市民全部が着ても余るほどあるように思えた」と、病院近くの工兵隊倉庫の話ですが。

米軍写真外辺003
窓は頑丈な鉄扉になっているが、爆心側(北西)の扉の多くは湾曲していました。

米軍写真外辺005
2000m「福島地区原爆犠牲者慰霊之碑」(福島町) 平和公園を中心に学校や地域の慰霊碑が数多くあります。占領下では「原爆」の文字は使用禁止でした。

米軍写真外辺006
2830m「日本麻紡績給水塔」(己斐本町)。現在は浜田樹苗園の敷地に立っています。

米軍写真外辺007
樹苗園のシブガキ。

米軍写真外辺008
1800m「逓信省電気試験所広島出張所」(三篠町)跡のスーパー、試験所の建物はもうありませんが逓信病院を設計した山田守の作ですので、窓を大きくとってそっくりな建物でした。

米軍写真外辺009
2200m「久永金紙押紙工場」、真鍮などを使用して金箔貼りの紙などを作る特殊な技術をもった工場です。おもては落ち着いた画廊のようですが一歩入ると複雑な階層になった町工場でした。これは排気筒、現在修復して現役使用していますが「被爆建物」の「建物」枠に入らないので自力で補修し保存しているとのことでした。昔の石灯籠や庭石も現建物の礎石として残しています。

米軍写真外辺010
焼け残った倉庫も健在でした。この倉庫はかなり傷んでいたので、(たぶん北の)原小学校の体育館を譲り受けて、体育館にすっぽり包まれているという、二重の被爆建物でした。整理整頓清潔な工場で、予約なしで行ったのですが(要予約)会長が自ら丁寧に案内してくださりました。

米軍写真外辺011
体育館の面影を残す階段を行ったり来たり、上部右下に下ると倉庫の入口でした。

米軍写真外辺012
2190m「安楽寺被爆イチョウ」(牛田本町、広島駅の北方)。

米軍写真外辺013
安楽寺近くの神田橋南詰、白島まで歩く。


Hiroshima, looking east January, 46 <アジア太平洋戦争⑦-7>  

*お断り:「アジア太平洋戦争⑦」は、これまでの「アジア太平洋戦争遺跡遺品①~⑥」の継続です。
前々作「380m(旧)日本銀行広島支店 袋町」の米軍撮影(William E Jones軍曹撮影、エノラ・ゲイ機長、爆撃手、航法士がサインしている)写真に写っている範囲で、今回わたしが撮影したところを掲載しました。本川小学校、袋町小学校など既報のところは今回省きました。

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その写真の左手前にある建物が、ここ「広島中央電話局西分局」跡、現 NTT広島西営業所(スポーツ施設)です。西十日市町。

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同写真で、爆心地(赤○×印)やや右奥が、360m(旧)帝国銀行広島支店、その後パン屋のアンデルセンが入り営業しているが、現在は建て替えのために鯉城通り紙屋町で営業中。ここが建て替え後にどういう形で残されるのかは不明ですが、「民間のパン屋さんがよく保存・維持してきました」という町の声を聞きました。

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被爆直後の(旧)帝国銀行広島支店(アンデルセン)、爆心側の西側が大きく崩壊しているのが分かります。広島市では被爆建物の当時の写真入り解説プレートを整備しています(写真の無いものもありますが)。

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同じ写真で相生橋を渡って向こう(東)にしばらく行った右側の建物が、八丁堀(胡町)の福屋デパート。蜂谷院長の「ヒロシマ日記」には「広島一の豪華版だった福屋デパートは爆風で窓が吹き飛び、中が焼けてしまって真黒になっている」「まるで洞窟そのものだ。その中から患者のうめき声がきこえてくる」。壊滅状態といえども外形が残った建物は被災者の救護の場となりました。

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広電「本通」停留所。

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比治山下の多聞院鐘楼(比治山町、1750m)は梁と天井板が破壊されたままの状態で保存されている。原子爆弾の炸裂と大火災によって焼き尽くされた広島の町で、木造建築物が残っているのは貴重です。

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その鐘楼の鐘には「NO MORE HIROSHIMA」と、梵語サンスクリットでも記されています。

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多聞院の仏塔の後ろに「駆逐艦浦波戦死者慰霊」のプレートがありました。1944年10月の「レイテ沖海戦」で撃沈されました。

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多聞院から比治山に上っていくと「陸軍墓地」があり、現在は市営墓地になっている。※陸軍墓地は隣接してか別の場所にあるようです、次回の撮影後に紹介させていただきます。
比治山で最も悲しい話は(ABCC関連の話もありますが)、張本勲氏(張勲チャンフン氏)が語るお姉さんの死の情景です。

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比治山の上には、旧ABCCのカマボコ舎があります(現 放射線影響研究所)。米軍はここで治療をせずに、多くの被爆者のデータを集め「来るべき」!?核戦争の準備をしていたのです。

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広島駅そばの浄光寺山門2100m。倒壊した本堂の陰になり残った、これも貴重な木造建築物です、原子野にぽつんと立っていました。

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広島駅そばの井戸ポンプ跡、これも2100mぐらいでしょうか?紙に「被爆ポンプです 残してください 永原富明 被爆二世」と書いてあります。駅前は再開発で近代的なビル群が、ジワジワと旧市街を締め付け追い詰めているように見えます。


爆心地から北へ1370mの白島ハクシマに逓信病院があった。一階と地下は焼失を免れ外形も残り、被爆後の被爆者治療(および被災者と蜂谷院長の生活の場ともなった)の拠点のひとつとして大わらわであった。1991年刊行された『日本の原爆記録』第6巻所収の、当時の院長 蜂谷道彦「ヒロシマ日記」(2010年日本ブックエースより再刊)をぜひ読んでいただきたい。院長も太ももに棒切れ、首にガラスが突き立った状態で丸裸で廃墟と化した自分の病院にたどり着き、外科の勝部先生に全身30個所の大手術を受け一命を取り留める。後日克明なメモを整理しまとめた「日記」であり、8/6から9/30までが記録されている。8/11の日記には「痛快なニュース」として「あれと同じ爆弾が日本にもあったのだ」「アメリカ西海岸は大変なことだ。やっとるぜえ、シスコやサンチェゴ、ローサンゼルス、カリホルニア、西海岸は処置なしだ」「病院一同愁眉を開いた」といった流言飛語や差別的発言もふくめではあるが、実に貴重な記録です。(現在は逓信病院の北側に保存され、事前に連絡すれば警備の人が鍵を開けてくれます)

逓信病院資料室小001
北側別棟4階の貯金局にあった時計。

逓信病院資料室小002
資料室(旧 逓信病院外来棟の南側のみ保存)を南側より。一階の一番右がベイウィンドウになっている(復元。この写真では木に隠れている)外光を大きく採りこむ手術室。

逓信病院資料室小003
1945年10月8日菊池俊吉氏撮影(展示。キャプションが付いているが違っているようなのでカットしました)。被爆後ほぼ2ヶ月だが、久しぶりの晴天なのか布団が干され、左下(一階)では看護師か?本を読んでいる。

逓信病院資料室小004
タイル貼りの手術室。被爆時のままのタイルで、資料室のなかでも貴重なもの。

逓信病院資料室小005
同じく被爆時当時のままのタイルが貼られた殺菌室(器具などの殺菌)。

逓信病院資料室小006
ここは見学用ビデオと資料を置いた部屋(旧 化膿手術室と外科診察室を合わせて一室にしたと思われる)。外光を採り入れるように目一杯ガラス窓が取り付けられたのが建築家 山田守氏の優れた設計であったが、皮肉にも被爆によりガラスが吹き飛び、9月中旬の台風など風雨吹き込むなかでの治療&生活が強いられた。

逓信病院資料室小007
東側階段の踊り場も大きな窓になっている。

逓信病院資料室小008
東側を外から見る。

広電 袋町停留所前の旧日銀広島支店は、爆心地Hypo-center(島外科内科上空600m)から380m、ほぼ直撃だった。1、2階は鎧戸を閉じていたが、2階で書類を拡げ始めた18名の職員が被爆し8名が亡くなられ、3階に「建物疎開」で移転していた広島財務局職員12名が亡くなられ、通勤途上の職員も多数が犠牲になった。エレベーターは金属供出のため「空」だったため、火と風と放射線が一体となった巨大な熱風がここを通り抜け地下をも破壊した。建物本体が堅牢だったため残り、地下金庫も破壊を免れたので、破壊された周辺の銀行がここに集まり二日後から銀行業務を再開したという。天井の明かり取りも粉々となり、晴れた日には青空を眺めつつ、雨が降れば雨水をしのいで作業を遂行したという。

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停留所には電車が1台焼けただれていたという。

旧日銀002
真ん中が相生橋、その右手前が本川小学校、対岸(中州状のところは中島町~現 平和公園)が県産業奨励館(現 原爆ドーム)、その右に小さく赤い○×印が爆心地、さらに右へコンクリート建物の黒い影の最後が日銀ではないだろうか?
1946年1月米軍撮影。Paul w. Tibbetsは「エノラ・ゲイ」の機長(なお「エノラ・ゲイ」はTibbets大佐の母親の名前)、その他 爆撃手と航法士のサインがある(10/22追記)。

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1階。銀行らしい窓口だ。

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1階、通り側。

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2階支店長室には砕けたガラスが突き刺さった跡が残る。

旧日銀005
予約の生徒が来ないので、案内の女性が説明してくれた(左は見学者だが、市内の人のようでした)。

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地下。

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大金庫。

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写真展 きょうのむかしとむかしのきょう ―韓国近代史を訪ねて―
本写真展の案内状には、全州のバスターミナルの写真を使いました。
カーテンを開けると眼前に男が!!ゥワァッ!窓ガラス全面が鏡面仕上げで「ラヴホ」なんです、天井までは鏡ではなかったですが・・・しかし「朝食付」ですから翌朝はそんな男女と一緒に食事か?これはさすがにカンベンでしたが、翌朝の食堂には次々と家族連れ(こども、ハラボジ・ハルモニ連れ)ばかりで安心しました、要するに「兼用」なんです。バスターミナルは生活の足で、周辺には食堂、コンビニ、安ホテルなどなんでも揃っていました。全州はビビンバの本場なのでおいしい!
わたしはこれまで、アジア太平洋戦争について学びかつ関連するものを撮影してきました。日清戦争と、近年明らかになってきた東学農民戦争、続く日露戦争と韓国朝鮮の植民地化の完成(「日韓併合」)。そこを通らないわけにはいきませんので、今回の撮影行となりました。今後も継続的に撮影していかなければならない題材ですが、まずはここにまとめてみました。 2017年8月


-失はれんとする一朝鮮建築のために- 柳宗悦選集より
「然しこの整然とした組織ある光景は、もう二度とこの世では見得ないのである。李朝の代表的建築である廉寧殿と交泰殿とは既に他に移転せられ変形せられ、今は只温突の煙出しのみが小山に沿うて淋しく佇んでいる。主要にして最大な建築である勤政殿の門を通して仰ぎ見る日はもう二度と帰ってこないのである。そのすぐ前にそれ等東洋の建築と何等の関わりもあらぬ厖大な洋風の建築、即ち来るべき総督府の建物がその竣成を今や急いでいる。ああ嘗ては自然の背景を考察し、建物と建物との配置を熟慮し、凡てに均等の美を含ましめ、純東洋の芸術を保留しようとした努力は、今や全然破壊せられ、放棄せられ、無視せられ、之に代るのに何等の創造的美を含まぬ洋風の建築が突如としてこの神聖な地を犯したのである。」~1922年『改造』9月号所載 柳宗悦「失われんとする一朝鮮建築のために」より(一部)。柳宗悦選集4「朝鮮とその芸術」の「新版の序」より以下抜粋「その中で「光化門」に就いての一篇がある。当時将に日本人の手によって毀たれようとしたこの薄命の門のために、公開状を時の「改造」に発表したのである。私も長い文筆の暮らしをした者であるが、この一文だけは公的な役割を果たすものとなった。幸ひに鮮訳も英訳も続いて現れ、与論が喚起され、遂に門は破壊の難だけは免れ、他に移建されるに至った。併しそのため私は危険なる人物として登録され、一時は刑事の尾行を受ける身となった。」(以下略)※巨大な朝鮮総督府庁舎は、勤政殿の真ん前に1926年竣工、1995年爆破で撤去された。

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復元された光化門天井画「玄武」。

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勤政殿前の女子高校生。

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乾清宮(景福宮の一番北、国王・皇后のいわば生活の場、復元)1895年10月(日清戦争直後)この中で閔妃殺害が行われた。(「乙未事件」)。

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景福宮、資善堂の基壇石。15世紀に建てられ、その後なんども焼失し高宗時代に再建されたが、1914年に大倉喜八郎が東京の自宅に移設し「朝鮮館」という私設美術館にした。しかし関東大震災で焼失、残った基壇石は1995年に韓国に返還されたが、堂を復元するには安全上問題があるので、基壇石のみ残されている。

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ここは中央郵便局横の路地なので、EMSなどの発送代行屋と古銭商に挟まれてコーヒー店を出している。

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韓国銀行貨幣金融博物館(旧朝鮮銀行本店)。この前の広い通り:韓国銀行前交差路に面して、この博物館をふくめ植民地時代の建物が並んでいる。中央郵便局もこの一角。

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ロシア公使館跡地に塔だけが残っている。露・日と英・米・仏・独らの帝国主義国に翻弄された李朝26代国王・高宗の時代を物語る。

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色と意匠と瓦屋根のソリが独特、徳寿宮。

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「乙未事件」後に国王高宗が居住し、第二次日韓協約(乙巳条約)締結の舞台ともなった徳寿宮の現在の正門。※韓国の建物は、豊臣秀吉の二回の侵略時に焼却・破壊され、近現代になって再建されたものが多い。

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-三・一独立運動-
タプコル公園(旧パゴダ公園)に着くと、ちょうど09:00開園だった。小さな公園だが、1919年3月1日に(高宗の葬儀の二日前)市民・学生によって独立宣言書が読まれ独立万歳を叫びながらのデモが開始、全国的な独立運動になり、日本軍が徹底的な弾圧を行った。朝鮮総督府は、これを契機にそれまでの「武断統治」をより巧妙な「文化統治」に転換した。

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1919年3月1日独立宣言書が読まれた八角亭。

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同公園の円覚寺址十層石塔。

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西大門刑務所歴史館。入り口は市民の憩いの場になっていた。

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-西大門刑務所歴史館運動場-
 「その日は何気なく塀にかけて運動をしていた。やがて運動をおわり、シャツをとろうとしたとき、隣の運動場から誰かが私のをひっぱりとってしまった。はっとした瞬間「キコク同志、君のをもらうぞ!」という声とともに、真新しいシャツ(注:夏物をキコクは持っていなかった、李は死刑執行を前にしていた)がまるめて私の頭上に投げられた。いうまでもなく李東鮮からだった。私は一瞬、高い見張台上の看守に目をやった。」(磯谷季次『朝鮮終戦記』未来社より)・・・磯谷は19師団(羅南)を満期除隊してのち「太平洋労働組合事件」で捕まり、在韓日本人60万人の中の例外的な治安維持法違反者―として追及されていた。再審を要求して西大門刑務所に収監されていたときのできごと。磯谷は音読みで「キコク」と呼ばれていた。

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日帝の敗戦により生きて出ることができた女性の証言と思えた。

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旧監獄正門、現代ヒュンダイ開発の高層アパート群。

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朝鮮王朝を建国した李成桂の肖像画を奉った慶基殿内。
-東学農民戦争-
地方役人、大地主らによる苛酷な収奪、身分制度、他国の干渉などに抗して1894年1月(前段)、3月に東学(「西学」にたいする東学:新興宗教的な組織でもあった)農民を中心にした農民軍が立ち上がって政府軍を打ち破り朝鮮王朝発祥の地・全州を占拠、これが清と日本の軍事介入の引き金となった(第一次蜂起)。1894年6月に農民の要求が認められた「全州和約」-腐敗官吏の処罰、不当な徴税賦役の撤廃、奴婢文書の廃棄、外国商人の規制等-が政府と締結される。 が、清・日軍とも撤退せず、同年7月日本軍が景福宮を占拠し高宗を虜にし「朝鮮政府の依頼で清国軍を撃退する」形をとり日清戦争勃発。同年10月、日本による王宮占拠・内政干渉に対して農民軍の第二次蜂起が起き漢城(現ソウル)を目指すが、公州の牛金峠ウグムチで官軍・日本軍に敗れる。日本軍による農民軍の包囲殲滅作戦が始まり、年内にほぼ終える。

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慶基殿内。

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慶基殿内。

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全州バスターミナル。

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群山へ。

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群山港浮桟橋、4基造ったうちの3基が残って現在も使用されている。朝鮮は、貧しくとも米だけは自給できたのだが、ここと木浦から大量の米が日本に「輸出」されるようになり、農民は雑穀を食べなければならなくなった。

きょうの小023
群山近代美術館(旧長崎十八銀行群山支店)。市内には大きな日本人街が形成され、現在でも日本家屋が残る。

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朝鮮半島西南端の町 木浦の綿市場跡。

きょうの小025
旧東洋拓殖(株)木浦支店。「木浦三白」といわれ、木浦は米、綿、塩の一大供給地であり、東拓木浦支店が一番成績が良かった。現在は近代歴史館第2館。

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木浦中央教会(現在はカルチャーセンターか?旧東本願寺木浦別院)。

きょうの小027
旧日本領事館、現在は近代歴史館第1館。裏に大きな防空壕(トンネル)が造られている。

きょうの小028
木浦沿岸旅客船ターミナル、多島海へ。農民軍が追い詰められた珍島もここから近い。

きょうの小029
半島南東部の新羅の古都 慶州。古墳と遺跡の町。

きょうの小030
毎週土曜は慶州中央市場からの歩道が朝市で埋め尽くされ、午後には売り切れる。

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参考資料~1921年9月発見時を描いた金冠塚周辺。古墳の周囲には家屋が密集していたのがよく分かる、朴正煕大統領時代に家屋を一掃した)。

きょうの小031(2)
金冠塚。酒屋増築(上の絵)時に金冠や豪華な埋葬品が発見され、日本の新聞にも一面トップで報道され、日本人による埋葬品・財物等の収集熱が加速される。
-小倉コレクション-
「小倉コレクション」をご存じでしょうか?大邱を中心にした電力事業者・小倉武之助が蒐集した朝鮮古美術(近代もある)4,000点とも5,000点とも言われていますが、敗戦で船を仕立ててうち1,000点を日本に持ち帰ったものです。これが日韓条約の交渉時に韓国から返還を求められましたが「個人のもの」という理由で日本政府は突っぱねました。小倉氏の死後、国立博物館(上野)に寄贈され一部が公開されています。しかし、これはまだまだほんの一部の話で、朝鮮の美術品・古書籍など3万点が現在国内での所在が明らかになっているのですが、およそその10倍=30万点が個人などに秘蔵もしくは死蔵されていると言われています。

きょうの小032
現在も慶州市内には未発掘の古墳がいたるところに残っている。これは見学もできるようにドームがかけられた「チョッセム遺跡発掘館」。

きょうの小033
慶州博物館、金銅製飾履新羅。

きょうの小034
慶州博物館、金銅半跏思惟像7C新羅。

きょうの小035
慶州博物館、南山石像弥勒三尊像7C新羅。

きょうの小036
慶州博物館。

きょうの小037
慶州博物館。

きょうの小038
慶州博物館。

きょうの小039
半島東南端、韓国第二の都市 釜山は、距離的にも歴史的にも日本に一番近い街。古書街。

きょうの小040
釜山国際市場。かつての日本人街、その前は日本居留地だったので、注意深く見ると日本家屋がまだ残っている。

きょうの小041
釜山タワー直下の日本家屋(か?)。すぐ近くのロッテモール前にも3軒あったが、次に行ったときには無くなっているだろう。

きょうの小042
九徳公設運動場。
-乃台事件-
1940年11月釜山公設運動場で慶尚南道内の中等学生の第二回学徒戦力増強国防競技会が開かれた(種目は戦時色濃厚なものだった)。前年は東莱中学が1位だった、同中学は朝鮮人の通う学校だった。審判長の慶南地区衛戍(駐屯の意)司令官兼中等学校軍事教練総監督官の乃台大佐は、前年の優勝校から入場行進を始める規定を無視し日本人学校である釜山中学校を筆頭に入場させた。東莱中学生徒がこれに抗議したが受け入れられず、競技でも東莱中学が1位になった種目は「判定保留」として後に減点すること10数種目にわたった。優勝のかかる最終競技でも東莱中学が1位になったが、乃台審判長の命令で服装検査をし東莱中学を失格とし、釜山中学を優勝させた。閉会宣言後、東莱中学生徒を筆頭に抗議し、二手に分かれた抗議デモが運動場から始まり、一部は乃台大佐の官舎に投石した。デモ解散後の夜から一斉検挙が始まり、150名の生徒が検挙され、東莱中学学生4名(9名ともいう)、釜山二商生徒6名が拘束起訴され実刑。東莱中学の後身の東莱高校ではこの「11月23日」を「東莱高校の日」と定め、毎年記念行事を行っています。

きょうの小043
公設運動場すぐ東。ここは宝水川が流れていたようで、下流に「富民橋」の本柱が残っていて、「大正」の文字が削り取られている。

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東莱高校。横断幕はこのとき引き揚げられた「セウォル号事故3年の追悼」。

きょうの小045
関釜フェリーから市街。

※2017年8月1日~21日、ジュンク堂池袋本店3階文芸書売場壁面をお借りしての写真展「きょうのむかしとむかしのきょう 韓国近代史を訪ねて」を掲載しました。写真45点+参考資料の絵1点です。キャプションは少し異なりますが、ほぼ同じです。また、本ブログ掲載の<きょうのむかしとむかしのきょう>を写真展用に再編集したものでもありますが、写真展用にA3に伸ばしましたので写真の迫力はあったかと思います。


前作「その1」で述べたが「それは満州国建設という侵略的な国策のもと「右手に鍬、左手に銃」として内原で訓練を受け「満州」に送られた少年たちの受けた二重の悲劇であった。その負の側面に触れることなく広大な内原の町に訓練所の遺跡が数多く存在する」その言葉をふたたび載せなければならない。しかも、多くの記念碑などは遺跡というよりも、近年になって建立されたものが多く過去の「満州開拓」の回顧ばかりでなく肯定的なメッセージすら読み取れる。最も多くの開拓団を出した(青少年も同様)長野県には、4年前に阿智村に「満蒙開拓平和記念館」が開設されたがそこの趣旨とは大変異なる~東京・横浜方面からは時間がかかりますが、一度阿智村を訪れることをお勧めします。

続内原訓練所跡001
水戸市内原町根古屋(または矢)ネゴヤ地区「宿・根古屋農村集落センター」内。農地改革記念碑というのはわたしの経験では珍しい、「専任書記(3名)」「昭和23年12月鯉渕村」と最後に書かれているが、あとは氏名が並んでいるのでおそらく農民組合の組合員名なのだと思うが、半分は解読できません。占領軍の指令による改革とはいえ、奪われる地主と得る旧小作との利害が鋭く対立したはずなので記念碑として残すのは少なかったのではないでしょうか?

続内原訓練所跡002
「農地改革記念碑」と通り一本向かい側に「11面観音堂」があり、その一角に、訓練所本部に1939年(昭和14年)に造営された「弥栄イヤサカ神社」が戦後ここ根古屋に移転された。地元では「護国神社」とよんでいるそうです。

続内原訓練所跡003
同 社ヤシロ。

続内原訓練所跡004
同 手水鉢。

続内原訓練所跡005
同 殉職供養碑。

続内原訓練所跡006
旧醸造所(現在の鯉淵の米屋さんの倉庫として移築・使用されている)。

続内原訓練所跡007
鯉渕学園内。「その1」に載せた「指導員養成所」のすぐ奥にある「幹部訓練所」、もう修復が困難で使用していないそうだ。

続内原訓練所跡008
旧訓練所を紹介した地図、右半分が周辺図で左半分が拡大図になっている、左図の多数の○印が「日輪舎」を現している。ここは「小林報徳地区」で、「弥栄神社」「興国(地名)」などその名に驚かされる。

続内原訓練所跡009
小林報徳地区の「訓練所之碑」(1975年-昭和50年建立)、内原訓練所跡地にある多くの碑や記念物が近年につくられたものであることにまた驚かされる。亡霊を見るがごとしか、時代を先取りしているのか?

続内原訓練所跡010
訓練所之碑のうしろに日輪舎(復元、「その1」のものよりは小型、記念館)。

続内原訓練所跡011
ここで訓練を終えた青少年義勇軍(現地では義勇隊と名乗らざるをえなかった)は数次にわたり8万6千余名を「満州」に送り込んだ。長野県、広島県出身が多かったと言うが、この記念塔(?)は1本(長野+岐阜)をのぞき広島県のもの。

続内原訓練所跡012
空襲で亡くなられた人々を慰霊した地蔵は東京や横浜で見たが、「勇者地蔵」というものは初めてでした。

小町伝える野山 小野路<或日或処⑥-4>  

これまで何度か紹介しましたが、町田市の一角に東京都が購入した野山が残されています。その真ん中に「小町井戸」があり、小野小町がこの井戸で目を洗ったら病が治ったという伝説が残されています(「小町伝説」というのは各地にあるようです)・・・いまは濁っていてちょっと目を洗うという感じではありませんが周囲の地形を考えると意外と清潔なのかも知れません。平日はほとんど人も歩いていませんのでなにか物騒な気もしますが、(ヤブ蚊と蜘蛛の巣が多くて!?)のんびり楽しめます。以前、尾根に「茶」の白い花を見つけたので来月にでも探してみようと思いますが、だんだんと「ヤブこぎ」がきつくなって決心つかず・・・。

小野路001ミズヒキ
ミズヒキ

小野路002シダ
シダ(の種)

小野路003イネ
イネ

小野路004ジュズ
ジュズ

小野路005コムラサキ
コムラサキ

小野路006オミナエシ
オミナエシ

小野路007
蜘蛛の糸

小野路008オオブタクサ?
オオブタクサ?

小野路009ヨウシュヤマゴボウ
ヨウシュヤマゴボウ

小野路010

小野路011チカラシバ
チカラシバ

小野路012タケニグサ
タケニグサ

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