写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

明大生田2013年現在<アジア太平洋戦争遺跡遺品③準備17>  

登戸研究所跡①-1参考:<アジア太平洋戦争遺跡遺品①-1>
2007年から撮り続けてきた<アジア太平洋戦争遺跡遺品①~③>だが、すでに6年が経とうとしている。なかにはすでに解体・破壊されたものもあり、長く続ければ良いというものではない、ここいらで一区切りをつけて①~③をひとつの写真集としてまとめようと思う。
しかしそれは簡単なことではなく、6年間を経た現在もう一度とらえ返す必要のものもあるし、撮り落としたものもあるやで、今回は①-1登戸研究所に何度目かの撮影に行くことになった。鉄筋コンクリート造りの36号棟が2010年から「平和教育登戸研究所資料館」としてオープンしたが、最後に残った木造建物2棟(5号棟、26号棟)は2011年に解体された。現存するものは、36号棟、弾薬庫、動物慰霊碑、消火栓(2個所)、弥心神社となるか、各種資料は「資料館」に保管され公開されている。


①生田小
「平和教育登戸研究所資料館」(36号棟)。向こうの高圧線引込み線は、登戸研究所で「光線兵器」開発などのために特殊な形をしたものだという。

②生田小
5号棟(解体)、偽札印刷工場、その役割については~3/2(水~土の10時~16時)まで報告会をやっているようです。

③生田小
「資料館」開設、木造建物解体で、生田キャンパスは大学キャンパスとして再度造り替えられている。明大は中野駅前の一等地にも進出し、こちらは「陸軍中野学校」跡地なので、「うちはなんで曰く付きばっかりなんだ?」という声も明大関係者から聞いた。

④生田小
こちらも解体中。

⑤生田小
工事関係者の事務所(ここがかつての5号棟があったところ)。

⑦生田小
ここは近代的なキャンパスにはやや異質なヒマラヤスギなどの森、かつての研究所本部が置かれていたところの痕跡。

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西隣の中学校も、かつては研究所だった(真ん中は大きな窪地で、現在の「資料館」横からの道路でつながっていたようだ。
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陸軍小倉造兵廠跡<アジア太平洋戦争遺跡遺品③準備16>  

小倉は今回で2回目、といってもまだモノレールもない時代だったからずいぶん前の話だ、旦過市場と小倉城ぐらいしか覚えていない。1923年(大正12年)関東大震災で陸軍造兵廠東京工場が壊滅し、かわって1933年(昭和8年)に小倉造兵廠が造られた。くわえて、門司港、洞海湾、八幡製鉄、広大な炭田を背後に持つ小倉は、軍事的にも重要な都市だった。
1945年8月9日、プルトニウム原爆を積んだB29は第一目標の小倉上空に達したが、雲が深く小倉造兵廠が視認できず、第二目標の長崎に投下した。
小倉の工場から来た友人・同僚たちは、決まってこの話をした、それも場違いというほどに唐突に。わたしとほぼ同世代の彼らは、戦後のベビー・ブーマーだから、小倉に投下されていれば存在しないことになる。その複雑な思いは、わずか数日の滞在ではくみ取れない。

※まことに勝手ながら、明日12/27~しばらく「年末年始休業」に入ります。皆さま、良いお年をお迎えください。

①清張記念館
松本清張記念館、次は中に入ろう。西小倉駅前から南下する通りは「清張通り」と命名されている。

②平和祈念碑長崎鐘
平和祈念碑と長崎の鐘(鐘はレプリカ、本物は市庁舎1階にある)。

③勝山公園
勝山公園(平和祈念碑の南側)、ここも広大な造兵廠からみればごく一部だ。

④「万葉の庭」1971年(昭和46年)
「万葉の庭」、勝山公園東きわに1971年(昭和46年)に建てられた。門司から戸畑にかけての美しい浜にちなんだ歌が万葉集に6首のこされていることを記念して。
豊国(とよくに)し間(ひま)し浜辺(はまへ)し真砂子(まなこ)土(つち)真直(まなほ)しあらば何か嘆かむ

⑤安川電機工場一部
安川電機工場一部(筑豊の炭鉱から出発した地元企業)、この辺が造兵廠の中心あたりか。

⑥監視哨
旧防空監視哨、第一施工場屋上にあって空襲に備えた。造兵廠所内各所にあったものの一つを公園脇に残した。

⑦給水塔レプリカ
造兵廠の給水塔レプリカ(1/6)。上記監視哨横に保存。

⑧造兵廠
造兵廠の地域をあらわした碑(小石川の造兵廠跡地にも同様のものがあった)、下の波が紫川、金字の上に左右に走る道路が現在の「清張通り」だろう。広大な地域で、腰痛も出たため少ししか歩けなかったが。

⑨豊後橋から紫川
紫川の豊後橋から、左手が造兵廠、右奥が小倉駅。雲行きが怪しくなってきた。

⑩中島
豊後橋を渡るとTOTOの大きな工場。その向こうのゴルフ練習場、チラチラと雪かな?

若松へ<アジア太平洋戦争遺跡遺品③準備15>  

戦争が激しくなるにつれ日本人の労働力が不足し、筑豊の炭鉱も多くは朝鮮人により採掘されるようになった。八幡製鉄も危険な職場・工程は多くの朝鮮人に担わされた。日本の敗戦により彼らは解放され、多くが半島への帰国を目指した(およそ200万人のうち140万人が帰国したと言われる)。
さて、12/12は小倉駅前の「総合案内所」で若松までどう行ったらいいですか?と聞いたら、若い女性が「折尾で乗り換えだから遠いです」「遠いです」のくりかえし。しかし、若戸大橋をバスでいけば12~13キロ、30分もかからないと思うのでバス停を聞いたけど「遠いです」と言って資料を見る振りをするばかり。あぁ、この人行ったことがないんだな。


①八幡製鉄
「歴史回廊」より。

②石炭貨車
当時の石炭車。若松駅脇に展示。

③慰霊碑1990年
慰霊碑。若松区の小田山霊園内。八幡製鉄や筑豊で働いていた朝鮮人が帰国を目指し、漁船などの小船に乗り込んで故国を目指したが、枕崎台風に遭い遺体が若松北海岸に漂着した。慰霊碑裏側の空き地に、その遺体の一部が埋葬されているらしいが、具体性のない慰霊碑というものが逆に痛々しい(裏面に簡単に記述されているが)。


ソッテ、天と地を結ぶもの・村の守護をする鳥が慰霊碑(墓地)の角に朝鮮半島を向いてたてられていた。

⑥古河鉱業
旧古河鉱業若松支店。古河鉱業は足尾銅山で銅精錬に石炭を使用したことから、筑豊の採炭を行うようになった。

⑦洞海湾明治
明治末の洞海湾(旧古河鉱業内に展示)。現在はあまり船の行き来はない。

⑧上野海運
旧三菱合資会社若松支店、1913年(大正2年)竣工。

⑨渡船
北九州市営若戸渡船、朝は通勤の労働者が多く利用するために2隻で運行している。

⑩若戸大橋新日鉄
若戸大橋、1962年開通。自転車は通れないから下の渡船で50円。向こうは新日鉄(戸畑)工場。
現在のJR日田彦山(ひこさん)線は、戦時中は彦山駅までで南へは延びていなかったが、彦山駅南の二叉トンネルは完成していた。このトンネルへ小倉の山田弾薬庫の弾薬を疎開させていたが、1945年(昭和20年)11月12日、米軍が弾薬処理のため点火し2時間後に大爆発を起こし、トンネル上の丸山は吹き飛び、地域住民を巻き込み147人の死者を出す大惨事となった。
彦山から10数キロ北へ向かうと田川郡添田町に入る。かつて古河鉱業所大峰炭鉱があったところだが、ごく普通の墓地「日向墓地」内の墓石と墓石の間に、一見無造作にボタや石が置かれている。これら(37個所)は炭鉱で亡くなった朝鮮人の墓であり、缶ジュースや(造花の)花が供えられていた。太極旗をさしている墓もあった。
大型店舗が進出している田川の町を抜けて、飯塚市営霊園内の「無窮花堂」(ムグンファダン:韓国の国花 ムクゲ堂)に向かった。強制連行で筑豊の炭鉱で働かされた裴来善(ペ・レソン故人)さんらが筑豊の炭鉱で亡くなった同胞のために建てた納骨堂、2000年に完成した。2002年には、納骨堂の周りに壁をつくり「歴史回廊」として日朝の交流史(近現代は負の交流史であるが)をタイル化してはめ込んでいる。一部を紹介するにとどまります。


①彦山トンネル
左の高架橋から切通しへ入るが、この切通し部が「二叉トンネル」だった。左右の小山の稜線をつないだ形に「丸山」があり、吹き飛んで切通しになった。

②彦山慰霊碑
彦山駅横の慰霊碑。

③日向墓地
日向墓地。缶ジュースが供えられていた。

④日向墓地
日向墓地。

⑤日向墓地
日向墓地。

⑥日向墓地
日向墓地。

⑦日向墓地
日向墓地。

⑧日向墓地
日向墓地。

⑨無窮花堂市営飯塚霊園
無窮花堂、市営飯塚霊園内。

⑩歴史回廊
「歴史回廊」より。

⑪歴史回廊
「歴史回廊」より、「かつて筑豊には500近い大小の炭鉱がひしめき合い、強制連行されてきた朝鮮人や中国人、連合軍の捕虜など約15万人が強制労働させられていました」、上は穂波町のボタ山(現在は樹木に覆われてわかりにくい)、下左は穂波のボタ石の墓、下右が上記の日向墓地。

⑫歴史回廊
「歴史回廊」は年表とムクゲの花から始まる。

⑬堂内部
納骨堂内部。

北九州 曽根・水巻<アジア太平洋戦争遺跡遺品③準備13>  

以前山口に行ったときに、小倉まで「のぞみ」ならば一駅20分足らずであることに気づいたので、今回は仙崎から北九州方面を撮影した。九州の北部というのは朝鮮半島とつながっているようなところで、中国、シベリアへの入口でもあり「戦争遺跡」も数多い。事前に調べたところも多かったのだが、欲張らず、限られたところだけの撮影になった。門司、小倉、若松、田川、飯塚と、そうか『青春の門』の舞台を、結果的にざっと歩いたことになった。
下の地図は、飯塚の「無窮花堂」の「歴史回廊」より。
『九州の戦争遺跡』(江浜明徳、海鳥社)、『毒ガス戦と日本軍』(吉見義明、岩波書店)など参考にしました。


「陸軍造兵廠曽根製造所跡」小倉南区下吉田、現「陸自小倉駐屯地曽根訓練所」。対都市ゲリラ・テロの訓練所と言うことだが、隊員もあまりいず活気がなかった。大久野島で製造された毒ガスを、砲弾、爆弾などに充填する工場だった。その多くは中国戦線で使用されたが、敗戦時に「証拠隠滅」のためにすぐ南の周防灘・苅田港に廃棄した。近年の苅田港の工事で発見され、2,000発が処理された。
③
曽根製造所跡。

④
周防灘、手前の空き地は曽根製造所跡(周りは洒落た住宅街になっている)。

⑤
苅田港。

「十字架の塔」遠賀郡水巻町。1943年(昭和18年)、捕虜のアメリカ兵、イギリス兵、オランダ兵がシンガポール、インドネシア方面から各炭鉱に連行され、ここ高松炭鉱には約1,200人が収容・採炭労働を強いられ、多数が病死あるいは脱走をはかり処刑された。敗戦時に、責任追及を逃れるために急遽つくられたのがこの塔であった。
⑥
塔のすぐ上の「大山祇神社」境内の「鉱業報国碑」。

⑦
旧日本炭砿第二砿口にあった彫刻「躍進」、圓鍔(えんつば)勝三氏作。

⑧
「殉職者招魂碑」

⑨
その下の墓地にある「十字架の塔」

⑩
名前と生年、死亡年のみが記されたプレート(のうちの一つ)。
仙崎:山口県長門市北(萩の西方)、詩人金子みすゞの生地。
「海外引揚げ上陸跡地」の質素な記念碑が、引揚げ50周年を記念して1995年(平成7年)に建てられた。1945年9月2日第一陣7,000名の引揚げ者が上陸してから一年余の間に、海外からの引揚げ者41万人、朝鮮に帰還した人々が34万人だった。大型船が入港できるとはいえ接岸はできず、多数の小舟に乗って着岸上陸(朝鮮へは乗船)したという。(敗戦時の海外邦人はおよそ700万人、うち民間人がその約半数だった)
仙﨑港は、いまはごく普通の漁港だ。


①
すぐ手前に記念碑が建っている。

②
旨そうなナマコをバケツに移している。

③
青海島(現在は仙﨑側と橋で結ばれている)通(かよい)の「くじら資料館」前。捕鯨は明治末ごろまでが盛んだった。

④
この日(12/9~)は日本列島に北西からの強い寒気団が入り、各地で大雪と遭難が相次いだ。外海は時化ているために出漁見合わせで、港にも市場にもひと気がなかった。

⑤
一艘入港してきた船は定置網の船で、これもあっという間に処理を終えた。

⑥
港はべた凪状態、夜明けは関東よりも1時間以上おそい。

⑦
仙崎港。

⑧
仙崎港。

⑨
旅館の入口に飾ってある絵。

⑩
仙崎港。
高幡不動尊裏山を撮影し、調べてみると井の頭公園にもあるという。冷たい雨の日に井の頭公園の池周辺を探したが松はほとんど無い、その冷雨の中で青年が現代舞踏?を踊っていた。池の周りにはスギが多かったが、戦争中の棺桶づくりのために切られ、現在は桜や楠などが多い。
松は「吉祥寺通り」をはさんだ「井の頭自然文化園」のほうに残っているというので、翌日出直した。高幡不動の松よりも樹齢は古く、太くて立派な木が多い。今年の台風で倒れた(のと危ないので切った)松を調べたらざっと120年、それよりも太いものが多いので幕末から明治初期のものなのだろうか。ハート型に切り取られた松は痛々しいが、67年を経て自らかさぶたのように覆ってきていた。
多くの彫刻はすべて北村西望の作品群、加藤清正の巨大像は異様としか言いようがない。日本彫刻界の頂点を極め、長崎の平和像など戦後は「平和」の彫刻を数多くつくったが、戦前・戦中には戦争協力・賛美的な彫刻を多数手がけている。その戦争責任を自らに問うたのであろうか?最後の松は通りの反対側で、こちらにもまだまだ残っているようだ。「はな子」さんは65歳ぐらいで、人間で言えば90歳をこえる年齢だそうで、食欲も体力も落ちてきたので飼育係の人が工夫しておにぎり(もちろん特大サイズ)をあげたら好んで食べ、やや元気になってきた。


①

②

③

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松精油・松根油<アジア太平洋戦争遺跡遺品③準備10>  

友人のSくんから「高幡不動尊の裏山に松の油脂から航空燃料をつくった跡が残っている」という話を聞いて、行ってみた。
元々アメリカからの石油輸入に頼っていた日本は、日中戦争の拡大とアメリカによる石油等の禁輸に直面して、蘭印(インドネシア)など南方への侵攻による石油をはじめとする資源確保のために戦線を一気に拡大した(真珠湾攻撃とマレー作戦)。しかしやがてシーレーンが確保できなくなり、航空機燃料が枯渇し、1945年(昭和20年)3月には「松根油、松脂増産」の閣議決定のもとに、全国で松からの航空機燃料の生産が開始された。その跡が高幡不動尊裏山にも残っていた、精製工場も近くにあったということだが、実用に値する品質ではなかった。

※この写真は「松脂」採取の跡です。「松根油」採取は文字通り松の根っ子を掘って油分を精製するというもので、遺跡はない。しかし、松が枯れたり弱体化して、戦後直後の台風の襲来で弱った山が崩れ土石流があちこちで発生し被害が大きかったというので…この方面も取材してみます。

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相生(はりま)補<アジア太平洋戦争遺跡遺品③準備9>  

今年5月に撮影した「相生事件を追う」を追うの、いわば補筆となる撮影でした。最低限、佐方川上流のセイタカアワダチソウ群落と皆勤橋たもとは撮影したかった。セイタカアワダチソウは季節ものなので咲いているかどうか、最近はかつての勢いがなくなり背が低くなり「群落」というよりはススキなどと棲み分けていることが多いセイタカアワダチソウだが、山陽自動車道近くまでいくと群落になっていた。朝鮮人労働者が野焼きされたところと言われている。
浦山桐郎監督は本編とは関係ないが、この街で育ち、播磨に勤務していたお父さんが家の裏手の崖から飛び降りて自殺し、深い心の傷を負ったという、そんな崖ばかりの街だ。


①那波
那波。石炭置き場を管理していたたばこ屋。

②旧石炭置き場
石炭置き場跡地。レンガ塀で仕切られたものが5個所ぐらい並んでいて、駐車場に使われたり廃墟化していたり。播磨の本社用にしては小さいが家庭用だけにしては大きいので、周辺の工場ごとに分けられていたと思われるが知っている人はいなかった。那波港脇(昔は船で運んでいたが、いまは防潮堤に遮られている)。

③工和橋
現在の「工和橋」と佐方川。

④K鉄工場
同橋近くの「K鉄工場」。

⑤朝鮮人労働者を野焼きした場所近く
佐方川上流。戦時中、朝鮮人労働者を野焼きしたところと言われた場所近く。

⑥同、山陽自動車道
同、山陽自動車道。

⑦皆勤橋入口跡
旧皆勤橋入口(町側)。

⑧旧皆勤橋横の防潮堤
同近くの防潮堤。

⑨相生地区
相生地区。こちらは昔賑やかで、1万人住んでいたそうだが、古い家並みがのこるばかりだ。

⑩播磨劇場跡の外壁
相生地区の「播磨劇場」跡の外壁。かつては映画館が3軒あったと聞いたが、とても信じられない。

⑪相生地区
相生地区。このまま崖が切り立っている。

⑫相生地区
相生地区。

⑬旭への途中
旭(現在の中心部)への途中。崖崩れ防止の工事中。

⑭旭地区
旭地区(現地では「地区」とは表現しないと思うが)。

⑮旭地区
旭地区。

千葉空襲②-7参考:<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-7>
現在は千葉大医学部の校舎になっているが戦時中は千葉医科病院(千葉大医学部附属病院の前身)で、千葉空襲(1945年6~7月に3回あったが7日は「七夕空襲」と言われている)時には被災者の収容・治療の拠点となった。病院北側の都川以北がほとんど壊滅したが、病院側の被害は少なかった。
8/16(今年)NHKの「関東ネットワーク」で、当時2年生で治療にあたった方の証言があった。
わたしの祖父母一家はすぐ北側に住んでいて被弾、風呂場の天井に火が上がり消し止めたが、祖母が被弾し同病院に収容され治療を受けたが甲斐なく亡くなった。死傷者1,204名のひとりです。そのあと(敗戦後)わたしが生まれました。



古くは1874年(明治7年)「共立病院」として開設、1936年(昭和11年)「附属医院新館」として造られた(翌年移転)。


入ってすぐの吹抜け天井部にはステンドグラスがある。


同吹抜け部。


吹抜け部床は、タイルを使ったモザイク。


玄関、吹抜け部はアールデコの典型的なデザインになっている。昭和初期とは、関東大震災後の建築界に新しい流れをもたらした時期とも言えるのだろう。


美しいデザインには目もくれず、多くの被災者が治療室へ運ばれた。廊下もなにも、修羅場と化した。


治療の中心となったところは、現在は教授室になっている。


この階段も担架でごったがえしたであろう。


裏口側も吹抜けになっている。ステンドグラスはないが、しゃれたデザインに仕上がっている。


裏口(東側)。


辛亥革命赤十字隊記念碑。辛亥革命にはせ参じようとした39名の中国人留学生に、学校をあげて医療技術、機器・薬剤さらには資金援助までして送り出し、「赤十字隊」派遣一年後に感謝の記念碑を建立。原文は中国語。


「昭和17年」「記念樹」と読めるが、由来は不明、玄関向かって右手。


旧病院裏手には、中世から「疫病災害を除く神」として崇められてきた「七天王塚」の一つが「千葉市指定史跡」として残っている。北斗七星の形に配置してある七つの塚。


病院(現・医学部本校舎)のすぐ北側は精神科病棟だった、サークル棟として使ったようだが、現在は老朽化して使われていないようだ。この建物もアールデコだ。


同・旧精神科棟。


敗戦時には建物が残っていたようだが、何に使われていたかは不明。向こうの町並みが亀井町あたり。当時10歳だった叔母は、病院の灯が点いたら遊びをやめて家に帰った「少し懐かしい」と。


草に覆われた下にも古い建物の跡がのこっている。東側の、現在の「千葉大学医学部付属病院」も含めて再開発計画が進んでいる。

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