写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

金次郎像の供出 小田原<アジア太平洋戦争④-16>  

二宮尊徳000

昨日(8/4)は「猛暑日5日連続、明治以来」というニュースを聞きながら小田原を歩いた。小田原城の上の小田原高校で、「戦後70年展 戦時・占領下の小田原中学」という展示を見るのが目的。小田原は1945年の8/15未明に空襲をうけ、402戸が焼失、死傷者113人の被害をだした、ポツダム宣言受諾決定後の空襲を受けた町のひとつだ。その町から「100段坂」(130段ほどの階段)を登ったところにある小田原高校には、足先だけが台座に乗っている奇妙な銅像が残っている。これは戦前小学校などに置かれた二宮尊徳像の「戦時供出」の残存(今回は「不鮮明」にしてあります)、地元ゆかりの尊徳さん没後80年の1935年に建立されたが1943年に「戦時供出」された跡ということだ。学徒動員では平塚の海軍火薬廠に行っているが、対岸の寒川毒ガス工場でも働かされていた。また、京浜工業地帯(の一部)溝ノ口の日本光学の工場にも動員され、鍵和田くんという少年が機銃掃射の犠牲になった~その日本光学の木造工場は、なんと私たちが学んだ写真学校の校舎だった!

二宮尊徳001
1928年(昭和3年)昭和天皇の即位記念としてつくられたブロンズ像は、「滅私奉公」を担わされて全国の小学校にさらに千体が置かれた。その時つくった像は、この一体をのぞきすべて供出された。

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じっさいの尊徳さんは幕末に生きた小田原のひとで、貧しい農村の改革・改良に尽くし、現在も小田原や栃木に用水などの遺構がある。

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「100段坂」、130段ぐらいありました。

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これわかる人はツウです。

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以下、小田原城内、象のウメ子は6年前に推定62歳で亡くなりました(人間でいえば100歳をこえるそうです)、汽車ぽっぽ、ウメ子さん、娘たちが小さいころにお世話になりました・・・。

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わたしもこの店に逃げ込みました。
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戦後まもなく、浜名湖の各所でドラム缶などに入った毒ガス(イペリット、ルイサイト)が打ち上げられ住民が死傷している。1976年には、三方原の旧陸軍飛行場(北側が爆撃場、南側一角に教導飛行団と97部隊-飛行教育部隊が入っていた)の南西でガス管工事中にイペリットが漏れ出し、作業者と住民が負傷した。飛行場と航空機関連工場が集中した浜松のなかでは三方原飛行場は比較的小さいが、毒ガス爆弾の投下や雨滴散布の実験・演習が繰り返された。当初1944年はサイパン島への攻撃にむけて、1945年には本土決戦に向けての実験・演習と考えられる。敗戦後、証拠隠滅のために浜名湖に投棄、事故による発覚後には遠州灘に再投棄されたというが。

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浜名湖細江町(北東部)

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浜名湖

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三方原用水(戦後の開拓でつくられた、天竜川秋葉ダムから引かれている)

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三方原用水円筒分水(用水を一定量で分水する)

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教導飛行団のすぐ北側に爆撃場が隣接していた

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陸軍教導飛行団の門柱が残っている

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飛行場跡は、戦後の入植者たちにより切り開かれ家畜・柑橘類・野菜の県下有数の産地となったが、南から市街化が進む

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ハウス農場が多い、とにかく真っ平

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初生

教導飛行団011
初生

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飛行場の南端にある「長池」、飛行場の排水のためにつくられた



宗源庵跡 掛川市<アジア太平洋戦争④-14>  

掛川駅南方の高天神城跡の東麓に宗源庵というお寺があり、1936年に菅原通顕という青年僧が住み新興仏教青年同盟(1931年結成)の運動を進めた。搾取・私有のない仏教的な社会をめざし、この地域の窮乏した農村の青年たちの心をとらえた。しかし、1936年に委員長妹尾が検挙、菅原も1937年11月に検挙され、日中戦争に突き進む国家に踏みしだかれていった。その寺の本堂は3年前まであったそうだが、無人だったために老朽化が進み取り壊され、現在は右手の集会所?に「曹洞宗 宗源庵」という看板が掲げられて残っている。(『静岡の15年戦争』静岡県近代史研究会編より)。無人の農家もあるが、お茶、米などを生産し見たかぎりでは堅実な集落だった。

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集会所?の左手の空地に3年前まで質素な本堂が建っていた。

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流されて 八丈島<アジア太平洋戦争④-13>  

1878年(明治11年)から東京府に属した伊豆諸島の南(さらに50キロ先に青ヶ島)、東京から290キロの亜熱帯に八丈島がある。サイパン、硫黄島の真北に位置するため1944年から2万人の陸海軍を増強し本土決戦のための「要塞化」をはかった。三原山(東山)中央からやや西側鉄壁山と八丈富士(西山)東南の神止山に長大な陣地壕を築いた。特攻艇「震洋」「回天」の基地もつくられたが、幸い地上戦闘は免れた(疎開船東光丸が沈められ149名が亡くなっている)。現在は、漁業と花卉・観葉植物と観光を中心におよそ8千人の人々が暮らしている。

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回天基地のあった底土。

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回天の壕がのこる。

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オオタニワタリ

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八丈富士から見た三原山、真ん中よりやや右手中腹に鉄壁山陣地壕がのこる(市街をはさんで三原山の左手前の側火山が神止山かんどやま、ここにも陣地壕が築かれた)。

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八丈富士火口にたどり着くと霧と強風で「お鉢めぐり」はあきらめた。

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風!

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震洋基地があった末吉。

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大坂トンネル脇の砲台あと。

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フェニックス・ロベレニーは島の産業を支えている(この葉で花を包む、花屋さんの必需品)。

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神止山の下。

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周囲60キロの小さな島だが、車がないと身動きとれない。

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地熱発電所。

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黒い溶岩だらけ、島には砂浜はない、八重根港。

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路傍には為朝ユリが。

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今回の推薦本は圧倒的にこれです!たかまつやよい『流されて八丈島』(ぶんか社 BUNKASHA COMICS)行く前に読んでも、行ってから読んでも面白い、八丈島の現状が如実に分かりすぎる!4巻出ています、第1弾(という表示はありませんが)『マンガ家、島にゆく~』、第2弾『おたくマンガ家のテンパリ島生活』、第3弾『マンガ家、島にゆく 5年め』、第4弾がこれ『おひとり島ぐらし 7年め』です! 
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奥から那覇へ<アジア太平洋戦争④-12>  

本島の西側を走った目からすると東側は明るい感じがした、それは天気が良くなってきただけかもしれないが、ヒカゲヘゴやアダンが多くなってきた。同宿のヤンバルクイナ撮影にきていた人の話だと、ハブはこの時季に活動的になっている、キイチゴの実の下に小鳥を狙っていることが多い、と。関東のように冬枯れから新芽が出るという趣ではないが、濃い緑から明るい緑への木の芽時なのだ。ヘリパット建設中の高江では村民の8年越しの座り込み中、美しい大浦湾では辺野古基地建設に反対する人々がバスで次々と降りてくる。キャンプ・ハンセンからは実弾射撃音だろうか、断続的に聞こえてくる。ここは「戦後70年」とひとくくりにはできないのだ。

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関東ローム層よりも赤い土

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アダン

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2mのハブ 飲んだことある

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沖縄戦後10万余人の収容所があった宜野座 白梅同窓会10数名が見学に来ていた「懐かしい懐かしい」と。前列は語り部をやっている方だろう、次は白梅学徒隊の足跡を訪ねて南部へ行こう

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金武ダム?

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奉安殿 知花

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古堅国民学校跡 門柱とデイゴ 空襲と艦砲射撃で校舎は焼失

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嘉手納町の西

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普天間宮 基地の中にあるか?

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嘉数高地を探して迷子状態 前田

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嘉数高地のトーチカ 陣地壕と地下でつながっている 嘉数、浦添、安里52高地(シュガーローフ)、真嘉比の激戦のすえ司令本部は、すでに住民の多くを避難させた南部へと「転進」することでいっそう住民を巻き込んでいく

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ミーガー 

奥~那覇へ014チヂフチャーガマ
チヂフチャーガマ 

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嘉数病院壕

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浦添ようどれ 中世琉球王国の陵墓だが艦砲射撃などで石灰岩盤が落下崩壊したが、2005年(平成17年)に蘇らせた

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クチグヮーガマ

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那覇市内

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陶器の手榴弾 壷屋焼物博物館

やんばるへ 本部~奥<アジア太平洋戦争④-11>  

3月上旬の沖縄は暖かい、しかし冷たくはないが強烈な北風が体温をうばっていく。「あぁきょうは一日向かい風だ~」、姿勢を低くしてただペダルを漕ぐのみ。数キロごとに小さな集落があり、「××共同店」があって生活必需品がすべてそろっている、1906年(明治39年)に本島最北の集落・奥の住民が共同出資・運営でつくり、他の集落にも普及したという歴史あるものだ…コンビニはいらない。トイレもあり、コンクリの東屋があって毎晩地区の男性の交流(酒盛り)の場になるのだそうな、ある共同店の女性が「毎晩ですよ!?」と強調していた。ときおり豚満載のトラックがすれ違う、うまいのだ!

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横浜港

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湾岸線 インゴット

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那覇港から本部へ(鹿児島行き)

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ソウルからきた女性

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強風のため15分の遅れ 鹿児島にはいつ着くのやら

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屋根に目がいってしまう

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同じく

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道路わきにはクワズイモの大きな葉が 北海道のフキを思い出す

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またまた同じく

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パンの配達 ここは見事な赤い瓦屋根だった

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荒れている

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ヒカゲヘゴ 奥に入るとあったが東側にはけっこう生えていた

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奥共同店

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沖縄独特の大きな墓地 

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奥 何川だったかメモしわすれた
那覇モノレールの「おもろまち」駅西側一帯は、元米軍住宅地区だったところで1987年に返還され、「新都心」として新しい町がつくられ賑わっている。国際通りの北側、歩いてもいくらもかからない距離だが一気に登らなければならない丘陵地だ。その上にいくつかの高地があり、そのひとつが「安里52高地」(米軍呼称「シュガーローフヒル」)と、駅をはさんだ東側の真嘉比(同「ハーフムーンヒル」)は、首里城地下壕の日本軍司令本部の真西2キロに位置する要衝、一大激戦地だったところ。ハーフムーンは、こんもりとした林のど真ん中を道路が建設されたというので、場所はすぐ分かったがまったく面影がなくどうも確信がもてない。シュガーローフはなかなか分からず、古い実用自転車に所帯道具を積んだXさんに聞いたら、自転車を置いて案内してくれた。Xさんは、「ガマフヤー」具志堅さんの呼びかけに応じて真嘉比の発掘を行ったホームレス、失業者など55名のひとりだったのです。多数の銃弾・砲弾、戦車のキャタピラーなどとともに172体の日本兵の遺骨を発掘・収集したということでした(じつはXさんから具志堅さんの本を教えていただき、帰りの機中で一気に読んだのでした。感動的な作業であり、本でした、推薦図書!)写真は、ハーフムーン、シュガーローフ、同上の説明版、同ヒルから見たハーフムーン300m。

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石川町への小さな旅<アジア太平洋戦争④-9>  

五浦(いづら)に風船爆弾の発射場が残るというので、冬にならないうちに行こうと考えていた。地図を見ているうちに、福島の南部にある石川町が近いか?迷う距離にある。石川町には戦争末期に、仁科博士と理研(陸軍の「委託」)がウランを抽出し原爆を製造するための工場があった、寒気はまだこないのでそこまで足を伸ばすことにした(鹿島の「たたら」と「桜花」、水戸の空襲跡地はなにもなくコインパーキングに侵食されていた、日立の町と模擬原爆投下地点、五浦へ~震洋の基地跡と風船爆弾発射基地跡、石川町のペグマタイトと理研工場跡、最後は勿来へ)。

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Lucky Dragon第五福竜丸 夢の島<アジア太平洋戦争④-8>  

夢の島の「第五福竜丸展示館」に入ると「ムッ」という臭気に飲まれた。船が放つ、潮と太陽と死の灰と都市ゴミの、この船が長年の間に吸ってきた臭気なのだ。1954年3月1日マーシャル諸島でマグロはえ縄漁中の第五福竜丸は、160キロ離れたビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験に遭い、黒い雨ならぬサンゴ礁を巻き上げた「白い雨」をかぶり甲板も体も白いままはえ縄の引き上げ作業をいそぎ、およそ2000~3000ミリシーベルトを浴び内部被ばくをし3月14日に焼津港に寄港し入院した。

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江波へ 広島HIROSHIMA<アジア太平洋戦争④-7>  

「元禄十四年(1701)に管絃船が地御前神社から宮島の長浜神社に帰る途中暴風雨に遭遇し、まさに転覆寸前になりました。その時風雨を避けて錨を降ろしていた阿賀村の「岡野喜右衛門」の鯛網船と九州からの帰路、嚴島神社に参拝する江波村の「古川屋伝蔵」は二次災害をかえりみず勇気ある行動で管絃船を救助しました。それ以来阿賀と江波の両村が管絃船を曳航して祭りが行われるようになりました」(宮島観光協会HPより)~その管弦祭が7/13(日)深夜まで、江波に翌日行ったら、地元の漁師さん「お祭りよりも翌日のほうが大変だよ」と片付け・洗濯で大忙しだった。広電江波は真っ直ぐの線路から斜めに引き込み線が入る、帰宅後調べてみると、この斜め部が広大な陸軍射撃場の東南辺にあたる。地図で見ると射撃場に沿った斜めの道路が残っている、ここが被爆者の遺体を埋めたところだった。帰りがけに土橋で入った喫茶店の内装がすごくて驚いたが、ここは地元の文化人が集まる店で有名らしい。この土橋と江波の間に中沢啓治が住んでいたのでこの辺がよく描かれている、なるほど。

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