写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

『きょうのむかしとむかしのきょう』(ソウル~釜山)は①から⑦最終章で取りあえず終わり制作順とは逆に配置されていますので、①からの昇順で並べ変えました。(2016年5月31日)

120師団
昨年、あるサイトで見つけた写真が今回の韓国行きを決断させた。わたしの父は、前年につくられた「120師団」の参謀として敗戦後の9月になって、1万人の将兵を率いて京城(現ソウル)から釜山まで(米軍の許可のもとでしかありえない)武装したまま行軍し、12月上旬に山口県の仙崎港に上陸し武装解除になったという・・・8年前の父の死の一週間前の話から。大筋合うサイトの説明であった。このいちばん手前が父とよく似ているので驚いたものだ。アジア太平洋戦争を考えるとき、その前史となる日清・日露戦争を捉えかえしておかなければならない、とりわけ朝鮮への侵略と植民地化の問題について。そして今回、梶山季之の「李朝残影」(インパクト出版会)を持って、行った。そこには、まだ日帝時代の痕跡が残っていた。

002旧府庁 地下道
ソウル図書館手前の地下道。

003ソウル図書館旧京城府府庁
ソウル図書館(旧京城府府庁舎)、うしろの現代的建物が現市庁舎。

004韓国銀行前交差路④ 韓国銀行貨幣金融博物館旧朝鮮銀行本店
韓国銀行貨幣金融博物館(旧朝鮮銀行本店)。この前の広い通り:韓国銀行前交差路に面して、この博物館をふくめ植民地時代の建物が並んでいる。

005韓国銀行前交差路② 新世界百貨店旧三越
新世界百貨店(旧三越、右手にスタンダードチャータード銀行が見える)。

006韓国銀行前交差路③ スタンダドチャタド銀行第一支店旧朝鮮貯蓄銀行
スタンダードチャータード銀行第一支店(旧朝鮮貯蓄銀行)、旧三越とこの銀行が博物館の真ん前に並んで残っている。

007韓国銀行前交差路① ソウル中央郵便局(ポストタワー)より
総レンガ造りの旧中央郵便局は建て直され、ポストタワーとして新世界百貨店前にそびえている。その中から撮影(右手に博物館、左手に百貨店とうしろにSC銀行という配置)。

008徳寿宮その周辺 (10)
徳寿宮の南側の道を入る。昼休みにはこの椅子が満杯になっていた。

009徳寿宮 貞洞劇場
貞洞劇場で現代舞踏。

010徳寿宮 旧新亜日報社別館
その少し先に旧新亜日報社別館の建物が残っている。

011徳寿宮 ロシア公使館跡塔
ロシア公使館跡地に塔だけが残っている。露・日と英・米・仏・独らの帝国主義国に翻弄された李朝26代国王・高宗の時代を物語る。

012徳寿宮 大漢門
高宗が居住し、第二次日韓協約(乙巳条約)締結の舞台ともなった徳寿宮の現在の正門。※韓国の建物は、豊臣秀吉の二回の侵略時に焼却・破壊され、近現代になって再建されたものが多い。

013徳寿宮
色と意匠と瓦屋根のソリが独特、徳寿宮。

014徳寿宮 昔御堂
徳寿宮 昔御堂、珍しい二階家だが落ち着いた雰囲気をもっている。徳寿宮には二棟の近代的な石造建物もある(「大韓帝国歴史館」「国立現代美術館」)。

015徳寿宮 石垣道
裏側の石垣道、昼休みのサラリーマン&ウーマンたちの憩いの道。

016徳寿宮 南瓜飴売り?
昼休みを当て込んだ南瓜飴売りか?

017明洞芸術劇場旧明治座
明洞芸術劇場(旧明治座)。

018明洞聖堂
明洞聖堂。
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朝の散歩をしてタプコル公園に着くと、ちょうど09:00開園だった。小さな公園だが、1919年3月1日に数千人の市民・学生によって独立宣言書が読まれ独立万歳を叫びながらデモを開始し、全国的な運動になった。そこから仁寺洞を通り景福宮に向かう。むかし来た時とは様変わり、仁寺洞は古物美術商がめっきり減って安物土産店が増えた。景福宮は復元が進み(まだ工事中)、樹木が育ってくればさらに素晴らしい王宮庭園になるでしょう。景福宮はご存じのとおり日清戦争が実質的に始まったところで、1894年7月23日日本軍は王宮の門を打ち破り侵入・占領し国王とその政府を支配し、清国から「朝鮮の独立を守る」義戦と称して7月25日豊島沖合で清国艦隊と砲火を交える。そして、日清戦争後、景福宮いちばん奥の乾清宮が閔妃(明成皇后、高宗の妃)が殺害される(乙未事変の)現場であった。

001明洞 (2)
韓国のコーヒーは意外と旨い。ここは中央郵便局横の路地なので、EMSなどの発送代行屋と古銭商に挟まれてコーヒー店を出している。

002タプコル公園 (2)
タプコル公園に着くと、ちょうど09:00開園。

003タプコル公園 (3)
同公園の円覚寺址十層石塔。

004タプコル公園 (4)
1919年3月1日独立宣言書が読まれた八角亭。

005景福宮
景福宮、光化門(2010年完成)。

006景福宮 (11)
景福宮、屋根の動物の像が好き。

007景福宮 (5)
景福宮、勤政殿。

008景福宮 (13)
景福宮。

009景福宮 (9)
景福宮。


景福宮。

011景福宮 (3)
景福宮。

012景福宮 (7)
景福宮。

013景福宮 (6)
景福宮、乾清宮。いちばん奥(北)にいちする、このなかで閔妃殺害が行われた。

014景福宮 (4)
景福宮、乾清宮の坤寧閣が現場とされる。美しい王宮と凄惨な歴史。

015景福宮 (8)
景福宮、資善堂の基壇石。15世紀に建てられ、その後なんども焼失し高宗時代に再建されたが、1914年に大倉喜八郎が東京の自宅に移設し「朝鮮館」という私設美術館にした。しかし関東大震災で焼失、残った基壇石は1995年に韓国に返還されたが、堂を復元するには安全上問題があるので、基壇石のみ残されている。

016明洞
歴史的な建造物は、文字通り近現代の日韓(と中国)の歴史を照らし出す・・・。東学農民戦争については、全州で触れることにします。
【そもそも日本では近代史をあまりしっかり学ばないので、はっきりと答えられない自分が少し恥ずかしくなりました。そのおばあさんと話していたら、資料館を見るのを忘れてしましい、2011年にリベンジした、というわけですが、 一人で行かなくてよかったです。 地下は薄暗く、拷問の様子や、実際に使用されていたらしき、 立ったまま息絶える道具(掃除箱のような形のもの)が展示されていたり、 突然大きな音がなったり・・・母と私のほかに誰もいなかったので、とても不気味に感じました。 資料館へは、ぜひ、一人で行かれないことをオススメします。】・・・以上「コネスト」西大門刑務所歴史館の「感想」より(一部)。

001西大門 (11)
入り口は市民の憩いの場になっていたので、ようやく肩の力を抜くことができました。

002西大門 (17)
西大門刑務所歴史館、入り口には小学校高学年ぐらいの子供たちで混雑していました。

003西大門 (3)
西大門刑務所歴史館。

004西大門 (16)
西大門刑務所歴史館。同模型。朝鮮中で一番大きい刑務所だった、市の郊外というよりは繁華街のすぐ外れという距離です。

005西大門 (15)
足枷の重りでしょうか。

006西大門 (18)
立ったままでしかいさせない、会社のロッカーのなかに閉じ込められるということだ。

007西大門 (8)
田中正造が領主に反抗して投獄された小さな身動きできない獄舎とよく似ているが、これは壁面に無数のハリ(トゲ)が付いている。小学生が一人入っているが、透明プラスチックで刺さらないようになっている見本品。

008西大門 (13)
受刑者が訴えている(立体映像)。

009西大門 (6)
独房。

010西大門
足枷だろうか。

011西大門 (12)
日帝の敗戦により生きて出ることができた女性の証言と思えた。

012西大門 (5)
網走の監獄そっくりだ。

013西大門 (10)
覗き窓、左は緊急時のボタン(押すと廊下側に40センチほどのバーが倒れ出て看守に知らせる~が、そのあと人間的な扱いを受けるとは思えない)。

014西大門 (7)
覗き窓より見学者。

015西大門 (4)
運動スペース。お互いの連絡をさせないために扇形になっている、現在の日本の刑務所にも見られる。

016西大門 (14)
現代ヒュンダイ開発の高層アパート群。
①~③にてソウルは終了です。龍山の陸軍駐屯地跡地など、まだまだ見たい所はいっぱいありましたが、巨大できれいな龍山駅から全州ジョンジュに向かいました。
全州jeonjuは大きな市ですがKORAIL(国鉄)駅前から市街までが遠く、慣れるまで大変でした。旧市街は太祖李成桂の肖像を奉安する慶基殿を中心に賑やかですが、19世紀末に東学農民運動が各地でおこり、井邑jeongeupの丘での戦いに勝利した農民軍(竹やり、せいぜい火縄銃)が全州に入城して支配します。この農民軍の勢いを恐れた政府軍が清に援軍を依頼し、これに勝手に呼応して日本軍が押し掛け、日清戦争が勃発しました。当時の日本にとって、朝鮮は「主権線」を守るための「利益線」(生命線的概念)とされ、清国への朝貢的従属関係から離反させて日本の支配下に置くことが目指されたわけです(「主権線」「利益線」は山県有朋の発案ではなくドイツで唱えられていた説だそうです。福沢諭吉はその積極的推進者でした)。韓国では2004年の特別立法でこの東学農民運動が公認されたそうですから、まだまだ研究が進むのでしょう。

001全州市外バスターミナル
全州市外バスターミナル。町の中心はじつは「市外バスターミナル」にあり、なんでも揃っている、♨ホテルもいっぱいで、窓から見れば「HOTEL to HEAVEN」ですよ!

002全州市外バスターミナル (2)
全州市外バスターミナル 。

003慶基殿正門近く
慶基殿正門近く。

004慶基殿正門
慶基殿正門。

005慶基殿正門 (3)
慶基殿正門。

006慶基殿 (3)
慶基殿。

007慶基殿正殿
慶基殿正殿。女性はこういう古典的な服装を楽しんでいるが、男性はなぜか気恥ずかしそうにしている。

008慶基殿正殿肖像太祖李成桂
慶基殿正殿、太祖李成桂の肖像画を奉安するために建てられたのだそうです(感覚的にはわからないが)。

009慶基殿 (4)
慶基殿。

010慶基殿 (2)
慶基殿。日月五峰図(レプリカ)前。

011慶基殿木版実演
慶基殿。木版実演、韓紙のふるさとでもある。

012東学革命祈念館
東学革命祈念館。慶基殿のすぐ東側にある、韓国民主化(光州事件は1980年)の実現によって東学農民革命運動にもようやく光が当たり、2004年に特別立法で公認された。

013東学革命祈念館崔時亭
東学革命祈念館。崔時亭像、この人は二代目のいわばイデオローグにあたるそうです。「西学」にたいする「東学」。

014東学革命祈念館豊南門前
東学革命祈念館。いまは韓村という古風な瓦屋根が観光の目玉であるが、19世紀の都市(農村も当然)両班以外はわら葺土壁の家に住んでいたのでしょう。

016東学革命祈念館日本軍隊
東学革命祈念館。日本軍隊。農民軍の指導者・全棒準の写真もありましたが、井邑jeongeup郊外に歴史館がありますので行く機会があったらそのときに紹介しましょう。

017東学革命祈念館天道教
日清戦争の契機となった東学農民運動は日本軍に壊滅させられたのち、1919年の3.1独立万歳運動の中心的勢力の一つ「天道教」として生まれ変わっていた。

018慶基殿周囲
慶基殿と東学革命祈念館を見て午後になると、旧市街は観光客でごった返していた。

019客舎近く (2)
客舎(むかしの迎賓館)近く。ハサミで調子をとりながら飴を売っていました。すこし舐めさせてくれたのがトラジの飴でした、ほのかな香りのさっぱりした甘味、荷物になるので買いませんでしたが。

020客舎迎賓館
客舎。いまは市民の憩いの場。

021客舎近く
客舎近く。銭湯があります(木浦にはもっとありましたが)。
かつて「米の群山」といわれた群山gunsanは周囲を広大な水田地帯に延々と囲まれ、錦江の内港から大量の米を日本に「輸出」していた。梶山季之『族譜』が書かれる元になった事件、全羅北道の薛鎮永ソル・チニョンは、自家の小作米全部2千石を朝鮮軍(日本軍)に献納した「親日的」な中地主だったが、先祖からの系譜を大事にする旧家でもあり創氏改名を固く拒んでいた。薛家の手前もあり付近の村落もまた改名するものがなかった。焦った当局が教師を動員し薛鎮永の子供たちに「進級を止める」と脅迫し、子供たちからも責められた薛鎮永は改名の届けをだし、翌日石を抱いて井戸に沈み祖先へ詫びた。同じく全羅北道の禾湖里hwahoriには長崎出身の熊本利平の農場があり、4,000町歩(ほぼヘクタール)を所有していた。その農場の倉庫兼事務所跡がのこっている(2016年現在未確認)。米にまつわる施設跡とかつて賑わった日本人街の名残を見る。
5/28追記:この「朝鮮米」の問題はあまり脚光をあびることはありませんが、日本にとって朝鮮支配・植民地化下での朝鮮米輸入は重要な問題でした。1918年の富山魚津から起こった米騒動は全国に波及し時の権力者を震えあがらせました。1930年代前半の東北大飢饉も起き、1936年の2.26事件の青年将校たちの動機のひとつになったものでもありました。朝鮮産出の米を数十年にわたり大量に「輸入」することが不可欠だったのです。朝鮮での米の増産計画(灌漑、肥料、品種改良など)も朝鮮の人々のために行ったものではなかったのです。朝鮮の地主層を日本経済と固く結び付け、他方では熊本農場のような日本人大地主を生み、東洋拓殖が経営していったわけで「米の群山」というのは深い意味があるのです。

001バスで群山から
バスからの群山郊外。

002列車で群山へ
列車からの群山郊外。水田は群山郊外にとどまらず、湖南線沿線に沿った一帯に広がっている。


百年広場向かいの喫茶店にあった往年の群山の写真。

003群山近代美術館旧長崎十八銀行群山支店
群山近代美術館、旧長崎十八銀行群山支店。

004群山近代建築館旧朝鮮銀行群山支店
群山近代建築館、旧朝鮮銀行群山支店。

005近代美術館裏の復元日本式家屋内は立派なホール
近代美術館裏の復元日本式家屋内は立派なホールになっていた。

006群山港ミズカフェ
群山港ミズカフェ、米輸出関連事務所の復元。

007湖南関税展示館旧群山税関本館
湖南関税展示館、旧群山税関本館(となりに現役の税関がある)。

008旧群山税関本館裏側。倉庫か?
旧群山税関本館裏側の倉庫。

009群山港旧線路沿いの旧倉庫か?
群山港旧線路沿いの旧倉庫か?

010群山港浮桟橋
群山港浮桟橋、4基造ったうちの3基が残って現在も使用されている。※この左手に70年代80年代の戦車、装甲車、ジェット戦闘機、艦船などが多数陳列されている。調整し直せばまだ使えるような兵器ばかりだったが、本稿と直接の関連はないので割愛しました。

011群山市街 (3)
群山市街、日本式家屋のように思われた。

012群山市街 (4)
同。

013群山市街 (5)
群山市街、ここは「こんにちは~」と入っていきたくなる雰囲気をもっていた。

014群山市街映画のセットになった畳あり
群山市街、映画のロケ地になった日本式家屋、縁側や畳部屋があり、観光客が絶えない。

015群山市街興天寺旧東本願寺
群山市街の興天寺は旧東本願寺旧 日蓮宗安国寺1970年代に建て直された(2017/6訂正)。
木浦は半島の最南端の都市。このため早い時期から日本の進出があった。「木浦三白」というように、米、棉、塩の日本への「輸出」(その実は収奪)港であった。このため旧市街には日本的な建造物や銭湯などがのこり、朝鮮の近現代史を振り返らなければとても安堵できる雰囲気を持っている(振り返れ!)。

001木浦駅校内
木浦駅構内。駅舎が新しくなっているところはどこも、出店はダンキンドーナッツ(右)、ブランチ・カフェ(正面)、わたしの後ろもカフェ&サンドイッチという感じの店ばかり。ブランチ・カフェがビビンバとチゲ鍋ぐらいを置いてあるぐらいに韓国料理苦戦中でした。

002regeoriカルチャーセンター木浦中央教会旧東本願寺木浦別院
現カルチャーセンター、前木浦中央教会(旧東本願寺木浦別院)。

003木浦近代歴史館Ⅱ旧東洋拓殖会社
木浦近代歴史館Ⅱ(旧東洋拓殖会社)。右のひとが歴史館の中を丁寧に案内してくれました、感謝!

004旧東洋拓殖会社
木浦近代歴史館Ⅱ(旧東洋拓殖会社)内。1904年から木浦領事自らが木浦が「陸地棉」の適地であることに気づき、この一帯に栽培地を拡げ日本の綿紡績業の原料を大量に供給し発展した。「木浦三白」というのだそうだが、棉、米、塩の大産地・出荷地だった。当地の米の7割が日本に収奪されたという。

005旧東洋拓殖会社1918年3-1独立万歳運動憲兵
木浦近代歴史館Ⅱ(旧東洋拓殖会社)内。1918年3・1独立万歳運動で万歳の声に驚く馬と憲兵(鐘路)、この写真そのものは合成のようです(当時は写真家の腕の見せ処でもあったわけですが)雰囲気はつかんでいると思います。その他、山端庸介の乳飲み児に授乳中の被ばく女性、731部隊による生体実験の写真、朝鮮人独立運動家の処刑など多くの写真が展示されています。

006木浦基督教会
木浦基督教会。連日暑く、喫茶店でおいしいコーヒーで一休み。客の男性に「どこからきましたか?」と問われ「横浜」と答えると「横浜たそがれ」のさわりを歌ってくれました。その人が隣の教会(使っていないようです)も撮っておけとアドバイス、でももう撮っていましたが。

007木浦旧日本式家屋 (2)
木浦旧日本式家屋。その喫茶店の真ん前、豪邸でした。

008木浦日本式家屋
木浦日本式家屋。群山では日本式かどうか?と迷いましたが、木浦には(歴史的には悲しい事実ではありますが)これとわかる家屋や倉庫がいっぱいあります。銭湯もいっぱいあります。

010木浦近代歴史館Ⅰ旧木浦日本領事館
木浦近代歴史館Ⅰ、旧木浦日本領事館。ど真ん中に、慰安婦少女の像があります。

011旧日本領事館旭日旗マーク横に弾痕か?
旧日本領事館の左上外壁に旭日旗マークとその横に弾痕か?(朝鮮戦争時のものかどうか不明)。

012旧領事館紡織機
旧領事館、紡織機。

013旧領事館
旧領事館、決戦茶碗。

014旧領事館裏防空壕
旧領事館のすぐ裏の防空壕。徴用の朝鮮人に掘らせたものでした。

015旧木浦府庁書庫
旧木浦府庁書庫。二階は市民のためのスペース。

016木浦旧陸地棉販売所
木浦旧陸地棉販売所。

018木浦旧市街移動花屋
木浦旧市街、移動花屋さん。けっこう売れていました。

019木浦港沿岸旅客船ターミナル
木浦港沿岸旅客船ターミナル。珍島をはじめ多島海へのフェリーが次々と出ていく。

020木浦港洞市場 (2)
木浦港洞市場。

021旧朝鮮運輸木浦支店
旧朝鮮運輸木浦支店。現在は保存指定だが使用はされていない。

022木浦文化院旧湖南銀行木浦支店
木浦文化院、旧湖南銀行木浦支店。
1945年9月の120師団の一枚の写真から始まりましたが、父の足跡とは異なるKORAILでいえば湖南線側をを歩いたことになる本シリーズでした。心ならずも釜山での撮影を次回(というのが許されるならば?)に回し、最終日に釜山busan港から下関に帰国しました。父母兄が暮らしていた会寧フェリョンのリンゴ園ははるかに北の北、中国東北部の国境ちかくになります。その距離にも増しての勉強足らず・・・とても深いということを知らされた韓国の旅でありました。干し柿をくれたご夫妻、歴史館を案内してくれたおじいさん(同年輩?)、木浦を案内してくれた年配のご婦人、カンサハムニダ!

001木浦駅前広場
木浦駅前広場。5月18日は光州民主化運動36周年にあたり、駅前広場では19時からの集会と追慕・写真展を準備していた。

002木浦駅前
木浦駅前広場。光州民主化運動を記念する碑が建っている。

003新市街
木浦の新市街。

004新市街現代アパート
高層アパート群を中心に木浦新市街はにぎわっていた。

005新市街 (2)
木浦新市街。

006釜山港 (2)
釜山港。

007釜山港
釜山港。71年前はこんなに明るくはなかったであろう・・・。


東京大空襲71年法要 墨田<アジア太平洋戦争⑤-14>  

2/19付で掲載した「江東墨田の地蔵尊 菊川~立川」で述べましたが、撮影した弥勒寺(3,500名の遺骨が眠る)で3/10東京大空襲71年の慰霊式典の誘いを受け、本日参列させていただきました。当初は被災者を中心にした200数十人の方が出席されていたとのことですが、高齢で出席できない方、亡くなられた方も多く、きょうは20名ほどの参列でしたが慰霊と平和を願う法要がいとなまれました。この日、墨田区の立川・菊川地区では各町内ごとに慰霊の式典を行い、そののち菊川橋西詰の夢違之地蔵尊前で合同の慰霊式典を行い、弥勒寺の住職がお経をあげ黙とうののち全員が焼香して終えました。奇しくも明日11日が東日本大震災5周年であり、合わせての法要でもあることが住職から述べられました。

東京大空襲71年001
弥勒寺。右の方は、高齢の義姉といっしょに浜松からの参加、義母さんが東京大空襲でこの地で亡くなられたということでした。ご本人は子どもの時に浜松で家の直近に爆弾を落とされ、機銃掃射を受けて、多くの亡骸の血の臭いが忘れられないと話してくれました。

東京大空襲71年002
弥勒寺。

東京大空襲71年003
菊川橋夢違之地蔵尊。

東京大空襲71年004
立川4丁目の元ガラス工場レンガ塀。高齢の方が時おり花束を供えていく(2/19付既出)。
「江東・墨田の地蔵尊」は今回でとりあえず終了しました。江東区までは撮影できず今後の宿題となりましたが、墨田区では大半を写せたと思います。戦争被災者(とくに東京大空襲)慰霊の地蔵や慰霊碑・塔は、戦後の復興がなんとか一段落してから建てられたものが多いようです。それと平成になってからのものもあり、これは被災された方々が高齢になったこととも関係しています。今回訪れた墨田区は地蔵尊、慰霊碑・塔がとても多く、東京大空襲の紅蓮の炎が焼き尽くした事実をいまなお伝えています、そしてどれも美しい花が供えられ墨田区の人々が世代を超えて戦争の経験を伝えていることが分かりました。

墨田北部地蔵001吾嬬西公園
吾嬬西公園。

墨田北部地蔵002円通寺
円通寺(「大東亜戦争 殉難者之碑 昭和二十年三月十日」とある~建立は1968年)。

墨田北部地蔵003円通寺ぬれ仏地蔵
円通寺。右奥が通称「ぬれ仏」被災の傷痕が生々しくのこる、左の首を白く補修しているのも頭部・右肩に「負傷」。

墨田北部地蔵004円通寺
円通寺。「ぬれ仏」群横手の江戸期の仏たちもともに被災している。

墨田北部地蔵005飛木稲荷
飛木稲荷(円通寺の隣)の焼け残ったイチョウ(本blog「アジア太平洋戦争遺跡遺品①-8」のうち3番目の写真と同じイチョウ)。

墨田北部地蔵006原公園=田丸稲荷神社
原公園=田丸稲荷神社。

墨田北部地蔵007明源寺
明源寺。左の九輪の塔の由来は分からないが、左右に砲弾形の花立と陸軍マークの付いた鉄カブト。

墨田北部地蔵008慈光院
慈光院。
      ……………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下は、撮影途上に出あったもの。

墨田北部地蔵009
飛木稲荷。前掲の焼け残ったイチョウの横にある国旗掲揚塔(この手のものは「紀元2600年」を祈念して全国に数多くつくられたようだ)。

墨田北部地蔵010香取神社
香取神社(文花)。
「暑さに負けた」前回の「江東墨田の地蔵尊」の続編となりますが、じつはきょう(2/19)の方がもっと暑く「4月上旬なみ」だったのです。桜が咲いていないのが不思議なくらいです。前回と今回歩いているところは墨田区が中心でしかもとても狭い範囲なのです、東西1.5キロ×南北2キロぐらい。この次はもう少し東に行くにしても距離的には大したものではありません。
周辺部に強力な焼夷弾を炸裂させ=逃げ場をなくしてから中心部に大量の焼夷弾を投下するという、残虐な作戦でした。わずか22年前の関東大震災の被災者とともに慰霊しているところが多くみられました。
※追記(2/23)法恩寺あたりから前回の「ガラス工場のレンガ塀」あたりまでがガラス工場が集中していた地域だ、とのこと(法恩寺近くの寿司屋若いご主人)。都心部には特定の業種が固まった地域がけっこうあった(札の辻・三田あたりは工作機械、蠣殻町は織物問屋、池之端・本郷は医療機器など・・・歴史的経緯もあるのですが)が、次第に移転、閉鎖でなくなってきた。

本所戦災地蔵尊001法恩寺
法恩寺(太平)

本所戦災地蔵尊002法恩寺
同じく法恩寺、日露戦争で中国で戦病死した兵士の碑(1915年に建立)。

本所戦災地蔵尊003妙見山別院
能勢妙見山別院(本所)。

本所戦災地蔵尊004-2カトリック本所教会
カトリック本所教会(本所)。日露戦争講和時(1906年、ナショナリズムが吹き荒れ新聞社、交番などが焼き討ちされ戒厳令)、関東大震災、東京大空襲により3度焼失された。

本所戦災地蔵尊004片男波部屋
片男波部屋、まわしを干していた。地図を見ていると、友綱、高砂、東関、九重部屋もあった、両国に近い!

本所戦災地蔵尊005墨田電話局
本所電話局(現NTT)跡に慰霊碑が建っている。電話交換手女性28名と男性職員3名が亡くなった、関東大震災時の男性職員2名もともに慰霊されている。

本所戦災地蔵尊006厩橋東詰地蔵尊
厩橋(東詰)地蔵尊。

本所戦災地蔵尊007厩橋東詰ベンチ
厩橋たもとのベンチ(両サイド)も被災していると思われるが?

本所戦災地蔵尊008吾妻橋東詰地蔵尊
あづま地蔵尊(吾妻橋東)。この辺は、浅草からスカイツリーへ行く外国人観光客であふれかえっている。

本所戦災地蔵尊009言問橋
ここも悲劇の現場となった言問橋。隅田川にかかる橋には両岸から火に追いつめられた人々が殺到し、修羅場と化した。

本所戦災地蔵尊010言問橋東牛島神社慰霊碑
牛嶋神社(言問橋東)の慰霊碑。「本所区の戦役・事変・戦災により、祖国防衛のために」亡くなられた人びとの慰霊ということで1955年に「在郷軍人の有志と趣旨に賛同した同志」により建立と記され、かなり異質だが、こういう慰霊碑もけっこうある。多くは「二度とこのような戦争をおこさないために」とうたわれているのだが・・・。

本所戦災地蔵尊011とうきょうスカイツリー駅下安全地蔵尊
とうきょうスカイツリー駅裏側にひっそりと建っている安全地蔵尊(平和への祈りと交通安全祈願)。

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