写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

ともだち2016年<或日或処⑤-13>  

今年お会いした人々です、友人・親戚・知らないひとも・・・お世話になりました、来年もよろしくお願いいたします。


鳥取からNさん、池袋


イタリアからAlessandraとかれ、池袋


I くん、四谷


Kくん(左)、Fくん(右)、駒込


Oくん、Oさん、神田


Eくん、代々木


Sくん、代々木


おれ、横浜


鳥取駅フォームで


伯母、育ての母97歳、永福町


左から、おれ、Fさん、Aさん、Spike、秩父


Kさん(自転車仲間)、東久留米


自転車仲間Jさん偲ぶ会で、ご長男ご夫妻、大森


Kくん(中学同級)、四谷


心の唄Kくん、Kさん、四谷


うさぎの着ぐるみアーティストSpikeは、毎日克明な日記を綴る、秩父


Sくん(左、キャパのポーズ?)、Yくん(右、上田で大写真展、来年は某県立美術館らしい)、上田


Mさん(左)、Uさん(ちょっと元気なかった?)、駒込


心の唄、波の音、駒込
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duct 5点<或日或処⑤-12>  

DUCT5点


OhIMACHI


MOKPO


KAWAWA


SEOUL


GINZA

Sketches of TAJIMI 多治見<或日或処⑤-12>  

岐阜県多治見市、ここは夏の猛暑で有名になりましたが、日本の焼き物の里としてあまりにも有名なところです。中学校の仲間が長年ここに住んでいてクラス会というと不自由な体を車に乗せて、毎回東京までやってきていました。そこで今回は、こちらから行ってみようと10人ぐらいで押しかけました。ずいぶん気をつかってくれて、古刹、ひつまぶし、ビッグなモーニング・コーヒー(あの名古屋式の)、作陶、味噌かつ・・と至れり尽くせりでした。わたしはその一部分だけを同行して、ひとりで観光メインストリートを歩いて早めに帰宅。この町は路地々々に入っていくともっと面白いところがあるはずです、それは次回として。












藤原安産堂・下 秩父郡皆野町<或日或処⑤-11>  

お世話になった安藤さんは画家というか美術家というべきか、舞踏とも関係が深く夜は大作を片付けて舞踏のビデオ会となった。かたやSpikeは、ウサギの着ぐるみを着て世界各地に出没するパフォーマー、今回は成田の到着ゲートのところでやるので写真を撮ってほしいという依頼がMizueさんからありました。しかし・・すぐパクられるよというわたしの忠告をいれて中止、まぁその代わりという感じで藤原での邂逅となったわけです。
ところで、この藤原地区ですが水田はむかしは集落の上の方にあったが植林されていまはない。また林業はふるわず、養蚕も全滅、畑というほどのものもない。早朝歩いてみると、大きな家々の前に軽トラが1台あったりするので、ここに一人住んで下に働きにでて夜戻るというパターンと理解しました、対向車が来ないわけです。しかし、こうして衰退し廃村となっていく村は日本中で数多く、けして珍しいことではないのです。「三ちゃん農業」なんて死語で、「長男から出て行く」のも同様、いまは娘さんが出て行く時代だと言われますが、娘もいない村こそ多いのです。


藤原安産堂その二001

藤原安産堂その二002
安藤さんと作品。山仕事をしているので身のこなしは軽快ですが、運転する軽トラも軽快でやや怖し。

藤原安産堂その二003
こちらも美術家の方が借りているようでした、早朝ラジオ体操をやっていました。

藤原安産堂その二004

藤原安産堂その二005

藤原安産堂その二006
「下におりる」ときは引っ越しではないので、かなり乱雑に放っている。この裏(庭)には卒塔婆が無造作に置いてある。


卒塔婆。

藤原安産堂その二007

藤原安産堂その二008
集落の真ん中の沢は、「土石流危険渓流」だった。

藤原安産堂その二009

藤原安産堂その二010
愚痴ばかりでる83歳でしたが、普段は愚痴を言う相手もいないわけです。左はMizueさん。

藤原安産堂その二011

藤原安産堂その二012

藤原安産堂・上 秩父郡皆野町<或日或処⑤-10>  

イギリスのパフォーマー Spike Mclarrityが来日しているので、Mizueさんの案内で秩父(郡)皆野町の村に住居とアトリエを構えている安藤さんの家で落ち合うことになりました(10/19)。地図で見てみると、皆野高校の横から県道に入り酒屋の脇からとにかく登っていくことになり、「対向車が来ないことを願うよ」とMizueさんにメールすると「何年も行っているけど対向車きたことない」と?まぁとにかく「藤原安産堂」というお産婆さん目指して登ればいいのね。そして行ってみると、小さな集落の真ん中に小さなお堂(お寺風神社というような)が「藤原安産堂」でした。安産を願うところで、無事産まれればお礼にまたお参りしてよだれかけを納めてくるという、わりとありそうなお堂でした~ようやく気が付きました。ところが、13軒ある集落に残っているのは高齢者10人だけだそうです。最近までいた子どものいる家族も「下におりた」という。

藤原安産堂その一001
一昨年の大雪で裏側の瓦が落ち、村人で直したのですが高齢者ばかりなので大変だったそうです。

藤原安産堂その一002
よだれかけ。×年×月×日「ありがとうございました。お陰様で~」そして名前が書かれています。わりと最近のものもあるので、訪れる人はたまにいるようでした。

藤原安産堂その一003
お堂の周りは遊具と腰掛けがありますが、もう使われていません。

藤原安産堂その一004
堂内。

藤原安産堂その一005

藤原安産堂その一006

藤原安産堂その一007
急斜面の石垣の村。養蚕をやっていたので大きな家々だ。

藤原安産堂その一008

藤原安産堂その一009

藤原安産堂その一010

藤原安産堂その一011

藤原安産堂その一012

秋の松本へ 茅野・松本<或日或処⑤-9>  

先日、団地の駐車場の抽選会があった。前回はペケで、ゴミ箱の横になって箱を洗う水がかかる~毎日洗車してもらっていると思えばよいのだが。そして今回意気込んだが「中位」、両側を大きい車に挟まれて(泣)・・・その入れ替えが4日にあり、じゃぁ松本まで行ってこようとカミさんとドライブ。台風が次々来襲して不安定な天気だったが、なんとかもってくれた。日頃の××。

秋松本へ001
茅野。杖突き峠(車社会が到来するまでは、杖を突いて急な坂道を登って高遠へ行く道だった。峠までいけば茅野、八ヶ岳、諏訪湖の展望がひらける素晴らしいところだが、世の中は世知辛く食堂2軒が展望を独占していて何か食べないと見ることができない~つぶれていれば有り難い)。

秋松本へ002
茅野。

秋松本へ003
松本。信州松本の豪商何代かにわたる「酒井コレクション」、展示は少ないが10万点のコレクションからテーマごとに展示していくので尽きることはない。暗いが撮影可能。だいたい空いています。

秋松本へ004
「大友の宿祢兼道」(為一いいつ=北斎)。

秋松本へ005信州諏訪湖
富嶽三十六景(為一)、「信州諏訪湖」。諏訪湖はもう60年ぐらい前から富栄養化で汚れている、天竜川の始まりの流れを見れば緑色のどろどろ状態だ。

秋松本へ006凱風快晴
刷師ビデオ、「凱風快晴」。

杉の寺 大雄山最乗寺<或日或処⑤-8>  

神奈川県民の神奈川知らず(わたしのこと)、横浜在住30年を超えますが興味が東京に向いて、神奈川・静岡といっても東名が近いので厚木から小田厚に乗って箱根~伊豆へと向かうことが多いのです。その間隙に大雄山線というローカルな電車と大雄山最乗寺という古刹があるということはむかしから知っているのですが行ったことがない、大雄山線も乗ったことがない、ということでアジサイもきれいだというので行ってみました。そこは樹齢何百年という杉の大木に囲まれた曹洞宗の大きなお寺でした。神奈川、東京の鳶・消防隊の慰霊碑と講(記念物?)がとりわけ目をひきました。

大雄山最上寺001

大雄山最上寺002

大雄山最上寺003

大雄山最上寺004

大雄山最上寺006

大雄山最上寺007

大雄山最上寺008

大雄山最上寺012

大雄山最上寺009

大雄山最上寺010

水湧きだす街 三島<或日或処⑤-7>  

前回『Before After 三島広小路』で少し触れましたが、日本の景観は「高度経済成長」前後の自然・景観破壊を抜きには語れないというか見ることができません。わたしが慶応病院に入院していたときに「皇太子御成婚」が話題になっていたので1959年、相部屋のKくんの父親が本州製紙の重役で、駿河湾(富士市?)にヘドロを垂れ流し反公害運動の矢面にさらされ見舞いのたびにKくんにこぼしていたのを思い出しますが、それはまだ序の口だったわけです。現在の三島市は、地下水量こそ減ったものの柿田川(沼津市)が復活し、市内を湧き水が流れ市民の憩いの場になっています。水を見ているだけで飽きない街。

水湧く街001
ミシマバイカモ(三島梅花藻)復活の湧水。

水湧く街002
ミシマバイカモ復活中。

水湧く街003
佐野美術館側。

水湧く街004
同、ヤマモモの実。

水湧く街005
水の苑緑地。

水湧く街007
佐野美術館側。

水湧く街008
ミシマバイカモ復活池(正式名称不明)

水湧く街009
水の苑緑地。

BEFORE AFTER 三島広小路<或日或処⑤-6>  

駿河湾に面し、富士山からの湧水が三島~沼津にかけて大量に湧き出て清流となる三島広小路。(たぶん「泥抜きは」と聞こえたのですが、一番上の橋の上でやらないと匂いがのこると言っていました)。豊富な湧き水も、50~60年代の工場誘致によりやせ細り、典型が三島駅前の楽寿園の池が干上がって久しい。清流「柿田川」も一時は製紙工場などの排水でひどい惨状であり、さらに横に火力発電所を中心の大工場を造ることになった。上流、下流での反対運動と、市民。自治体一体になった浄化運動でかろうじて現在の美しい流れが戻ってきたのだそうだ。私と同年輩の人に聞くと、一様に「三島から沼津で魚取りに潜って遊んでいたよ」とおっしゃる。

BEFORE


AFTER


「鉄の肺」との出会い 鳥取<或日或処⑤-5>  

暗い話で申し訳ありませんが、このblogはある種わたしの「日録」でもあるので、半年おくれですが1点入れておくことに(決断)しました。わたしが3歳半のとき、2歳の妹が小児麻痺(ポリオ)で死にました。隣家の子が感染した直後に症状があらわれました(が、当時は感染性の病気とは考えられていませんでした)。けっきょく症状が脳もふくめ全身に回り、医学的にはどうしようもなかったと考えられます。しかし、絶望的なときに医師が「鉄の肺が間に合っていれば何とかなったのだが・・・」旨を両親に話しました。以後、ときおり両親が「鉄の肺」があったらねぇという話をしていました。それがどういうものか、まったく分からなかったのですが。
昨年、三ノ宮から回って鳥取に寄り道しました。中山さんの写真展と植田正治写真美術館を見ることが目玉で、以前泊まったGホテルで、偶然テレビに「鉄の肺」の特集番組が映し出されクギづけになりました。それは単なる「人工呼吸器」ではなく、生活もまた可能なカプセルだったのです。カプセルから頭を出している女性は、この中で何十年も生き延びて=生活していたのでした。重症化した妹に可能だったとは思いませんが、今は亡き両親がこの映像をみたら藁をもつかむ気持ちが沸き起こったでしょう。


201511鉄の肺

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