写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

2/2付の「小倉コレクション」の続編となります。異国の文化財とりわけ美術品に魅了されて蒐集する、その気持ちは理解できます。20世紀初頭から東京にきたイギリス人弁護士ジョン・ガスビーはそうした蒐集家の一人で、高麗青磁に憑かれ「ガスビーコレクション」といわれていた。しかし1936年の「226事件」を契機に日本とイギリスの関係を危惧し、全コレクションを韓国人の澗松(全鎣弼)に手渡し、日中戦争、太平洋戦争、朝鮮戦争にも耐え抜き現在も韓国に保存されている(「失われた朝鮮文化」李亀烈)、という話もありますが(ガスビーの手に渡るまでの高麗青磁の遍歴は?という問題は残りますが)むしろ例外的な話で、日本を始め諸外国のコレクターに「死蔵」されているものの方が圧倒的に多いようです。

001多紐細文鏡BC3-1C慶尚南道小倉
多紐細文鏡BC3-1C慶尚南道

002壺BC1-AD3C平壌小倉
壺BC1-AD3C平壌

003緑釉竈1-3C楽浪古墳小倉
緑釉竈1-3C楽浪古墳。竈かまどのミニチュア、死者があの世でも暮らしていけるようにとの副葬品。

004金冠塚出土刀装具5C慶州小倉
金冠塚出土刀装具5C慶州

005銅製鐎斗6C慶尚南道小倉
銅製鐎斗6C慶尚南道

006鳥翼形冠飾6C昌寧小倉
鳥翼形冠飾6C昌寧。死者(強大な首長)に着ける飾り。

007印花文壺6-7C土製小倉
印花文壺6-7C土製

008緑釉壺7C陶製小倉
緑釉壺7C陶製

009孔雀明王座像7C小倉
孔雀明王座像7C

010慶州南山出土品8C小倉
慶州南山出土品8C

011瓦塔8-9C土製小倉
瓦塔8-9C土製

012金銅八角舎利塔8-9C光陽小倉
金銅八角舎利塔8-9C光陽


スポンサーサイト
きょう3月10日は東京大空襲72年(明日は東日本大震災6年)、東京都慰霊堂で大きな法要が行われましたが、ここ墨田区立川の弥勒寺でも20名ほどでの小さな戦災忌が営まれました(昨年の模様は、<アジア太平洋戦争⑤-14>を参照してください)。午前11時から戦災殉難慰霊観音像(片岡静観作)の前で住職がお経をあげ参列者が焼香、午後1時半から本堂での法要、そのあと菊川橋の夢違之地蔵(ユメタガイジゾウ)尊で各町内から合流して合同での慰霊式が営まれるという3部の戦災忌でした。弥勒寺の観音様の下には名前も分からない3600名の方々が眠っています、この地は遺体が山のように折り重なっていたということです。




左はお孫さんでしょうか。



前回の伊勢佐木町も、27回に渡る空襲、とりわけ1945年5月29日の「横浜大空襲」により焦土と化しました。以前、日ノ出町、黄金町、霞ヶ丘、平沼橋(<アジア太平湯戦争遺跡・遺品①-7>所収)を撮影しましたが、今回は京急の南側を当時の写真を手がかりに歩いてみました。伊勢佐木町と野毛は場所が確定できませんでしたが、吉田橋と馬車道(が一つながりであることに今回初めて気づいたのですが!?)は特定でき、また当時の建築物が現在も活躍していることに驚きました。

1)伊勢佐木町
馬車道野毛001泉門三郎氏寄贈45
泉門三郎氏寄贈(横浜市ウェブサイトより、以下同) 1945年撮影。

2)吉田橋
馬車道野毛003米国立公文書館
米国国立公文書館所蔵 1946年7月4日独立記念日のパレード。

馬車道野毛004
上の写真の撮影位置は現在JRの高架上あたりですので、かなり手前下方やや左手からの撮影になりましたが、正面の「BAZAR」と書いたビル(イセビル)はよく見るとほぼ同じ、胸ときめく。大修繕をやってのことでしょうが、1927年(昭和2年)落成です。なるほど、伊勢佐木町から馬車道へはまっすぐつながった道路で往年は賑わったのですが、現在は横羽線、JR高架と味気ない空間になって分断されています。人の流れもまっすぐいかず、関内駅に吸い込まれていきます。

馬車道野毛005
イセビル(現「第一イセビル)の階段 すり減って築90年を物語る。

馬車道野毛006
1859年(安政6年)横浜が開港し施設充実のために入海であったところに木橋をかけ吉田橋と銘々した。現在の橋は1869年(明治2年)イギリス人ブラントンによって付け替えられたトラス鉄橋が元の、5代目となる。下はすでに首都高横羽線になっている。初期に治安のために関所が設けられ、関の内側(港側)が「関内」、外側が「関外」と言われるようになったという。

3)馬車道
馬車道野毛007米国立公文書館4509
米国国立公文書館所蔵 1946年9月20日撮影。

馬車道野毛008
右手オレンジのオブジェのところは「横浜宝塚劇場」(現・市民文化会館関内ホール)、上の写真で人がいっぱい集まっているところ。道路奥にアーチが見えるが、その上の青いドームが「横浜正金銀行」(現・県立歴史博物館、休館中)。「宝塚」の向かいの四角く目立つ建物が見つかりました、次の写真で紹介します。

馬車道野毛009
広東料理で有名な「生香園」(本店)でした。

馬車道野毛009-2
「生香園」を対角から見るとけっこう大きな建物で、むかしは何に使われていたのか分かりませんでしたが。

馬車道野毛010
「横浜正金銀行」ここで記念写真を撮って赤レンガ倉庫に向かう定番コースですが「日銀は内国を経理して外国に当たり 正金銀行は海外を経理して以て内国を益し・・・(略)」(松方正義蔵相)と位置づけられた極めて重要な銀行でした。相次ぐ戦争を金融面から支えていたとも言えるでしょう。

4)野毛
馬車道野毛011山室忠一氏寄贈4506
山室忠一氏寄贈 1945年6月撮影。やや上方から撮影しているので野毛の高台からでしょうか、道路には市電の軌道らしきものがみえるので当時の経路を調べればもう少し分かってきそうです。正面には焼け残ったビルが多く見えるので尾上町や港近くの方向らしい。

馬車道野毛012
上の写真はもっと左手だと思いますが(よく写真を見ていて手前が県道218号、その向こうが大岡川~となると逆に右側!?)成田山別院から。この辺も同様な惨状だったことでしょう。

大英博物館、ルーヴル美術館をはじめ、かつての植民地宗主国の主要な美術館収蔵品は、その植民地の(合法=購入など、非合法=収奪、強奪、盗掘など)宗教的歴史的文物や美術工芸品が中心になっている。旧植民地側からは当然ながら返還の要求があるが、メトロポリタン美術館などの一部を除いて返還の動きは少ない。
日本の植民地時代の朝鮮では、電力事業を推し進めた小倉武之助が古美術の収集を行い、数千点を所有していた。敗戦時にそのうちの1000余点を船で日本に運び「小倉コレクション」として保存していたが、1960年代の日韓条約の交渉時に韓国側から返還を求められた。しかし、日本側は「個人の所有物」ということで突っぱね、小倉の死後、国立博物館(上野)に寄贈され現在東洋館で一部であるが公開されている。この「小倉コレクション」については、もう少し調べていこうと考えています。
追記:岩波新書『コロニアリズムと文化財』(2012年、荒井信一)が分かりやすくまとめている。とりわけ、21世紀に入り多くの美術館、博物館、大学などから「寄贈」という形が多いが、実質返還が実現している。とはいえ、それは全体のごくごくわずかな胎動でしかない。~3/1記
。       

小倉001 冠5C
冠 5C

小倉002 薫炉BC2~1C
薫炉 BC2~1C

小倉003 高坏BC4~2C
高坏 BC4~2C

小倉004 毘盧舎那仏立像9~10C
毘盧舎那仏立像 9~10C

小倉005 薬師如来立像7C
薬師如来立像 7C

小倉006 獣文飾板BC3~1C
獣文飾板 BC3~1C

小倉007 単龍文環頭大刀6C
単龍文環頭大刀 6C

小倉008 土偶5~6C
土偶 5~6C

小倉009 土製勾玉5~6C
土製勾玉 5~6C

小倉010 緑釉博山炉1~3C
緑釉博山炉 1~3C

小倉011 銅製三環鈴5~6C
銅製三環鈴 5~6C

小倉012 菩薩半跏像7C
菩薩半跏像 7C
昼に雪が少し舞ったが江東の寺社は「七福神巡り」で人が出ていた。昨年の2月3月と「江東墨田の地蔵尊」として、1945年3月(9日から)10日の東京大空襲を4回にわたって追ったが、江東区側をが写していなかった。その宿題として年明け早々(昨日1/14)、木場公園の周囲をぐるっと回ってみた。3キロ×3キロほどの狭い範囲だったが、慰霊と平和を願う地蔵尊や慰霊碑、遺跡があり、地元の方と話せば肉親たちが東陽町方面に逃げて行ったきり行方不明になり、母親は小名木川に浸かって助かった(川や池に逃げて亡くなられた方も多いのだが)という話をしてくれました。いまはあまり活用されていませんが、水路が縦横に発達した水の町でもあります。

木場公園周辺の地蔵尊001
木場 新田橋

木場公園周辺の地蔵尊002
洲崎

木場公園周辺の地蔵尊003
西洲崎橋 親子地蔵尊と慰霊碑

木場公園周辺の地蔵尊003-2
西洲崎橋

木場公園周辺の地蔵尊004
平久橋(へいきゅうばし) 江戸期の高潮被害時の「波除碑(これより先に家を建ててはならないの碑)」、戦災殉難者慰霊塔とならび橋の遺構と思われるものがあった(地元の人に聞いたが、何かは分かりませんでした)

木場公園周辺の地蔵尊005
木場

木場公園周辺の地蔵尊006
冬木弁財天(七福神巡り)

木場公園周辺の地蔵尊007
冬木弁財天境内

木場公園周辺の地蔵尊011
白河 延命地蔵尊

木場公園周辺の地蔵尊012
森下 八百霊地蔵尊(深川高橋五丁目町民犠牲者800人を慰霊して)

木場公園周辺の地蔵尊013
猿江 重願寺みまもり観音と関根正二の墓の案内

木場公園周辺の地蔵尊016
砂町 六地蔵の暗い片隅に

木場公園周辺の地蔵尊017
砂町 六地蔵

木場公園周辺の地蔵尊018
東陽 深川親子地蔵尊

木場公園周辺の地蔵尊019
小名木川

「ピースあいち」から 名古屋<アジア太平洋戦争⑥-6>  

名古屋市名東区に「ピースあいち」という「戦争と平和の資料館」があります。「誕生秘話」によると、1993年「戦争の風化が進むなか、戦争の教訓を次世代の平和のために役立てたいとの思いから、有志が愛知県と名古屋市に公的な資料館の建設を呼びかけ」1999年には県と市が「戦争資料館」開設の結論をだしたが地方財政の悪化により行き詰まってしまった。2005年にそのことを聞いた加藤たづさん(当時84歳)が、一生かけて貯めた財産(土地90坪と1億円)を資料館建設のために寄付され、2007年に開設した。いま、約90人のボランティアの手で「館」を運営し、会員の会費と支援の寄付によって財政が支えられています~という、この話だけでも感動的ですが、限られたスペースを有効に使い、戦争を過去のものとしてとらえるのではなく現在(の戦争)につながるものとして訴えかける姿勢がよく伝わりました。

ピースあいちから001
毒ガスを大量に製造し(陸軍は大久野島、海軍は寒川)おもに中国戦線で使用したのは日本軍でした。このような防毒マスクでは防ぎえない皮膚をびらん状にし戦闘能力を奪い、死に至らしめるもの(「黄」)も製造し、一部使用されました。いまだなお中国には日本軍が遺棄した大量の毒ガス弾があり、日本の費用により処分が続けられています。

ピースあいちから003
東邦高校校門すぐにある「平和の碑(いしぶみ)」。名古屋は航空機の一大生産地で、中島飛行機(武蔵野、太田など)とならぶ三菱重工などの工場が集中していた。現在のナゴヤドームを中心にした広大な一帯が三菱重工名古屋発動機製作所で、1944年12月に空襲を受け、300余名の方々が亡くなった。学徒動員で働いていた東邦商業学校の生徒20名と教師2名も亡くなった。1995年、戦後50年にあたり三菱重工(株)から当時の工場の一部を譲り受けて「平和の碑」を建立した。大きく湾曲しているのは煙突の一部分だという、機銃掃射の跡も生々しい。

ピースあいちから004
同。

ピースあいちから007
東邦高校の近くに「平和公園」という広大な公園墓地がある。ほとんどは戦後市内の区画整理で越してきた墓地だが、ほんのわずか国有地がある。そこが日清、日露戦争の陸軍墓地だ(一部は1937年日中戦争が本格化する前の戦闘時の兵士の墓もある)。こちらは兵士の墓。

ピースあいちから008
兵士の墓の横には将校の墓が・・死してもなお、戦後70年を経てもなお階級の差が。

ピースあいちから009
一角には日露戦争時に捕虜となったロシア軍将兵の墓15基がある。これは1990年に、シベリア抑留されていた元兵士(将校かも?)がロシア兵の墓1基を見つけ、その後の調査で(全国に収容されていた捕虜のうち、名古屋で亡くなった)15名の名前も分かり2003年に完成した墓地です。

ピースあいちから010
「ピースあいち」に展示されている本郷新・作「嵐の中の母子像」。「モチーフは広島の惨害」ということです。

鳥取経由広島行 <アジア太平洋戦争遺跡遺品⑥-5>  

鳥取で開催していた写真展(中山哲史「SEOUL -Street Photo」9/29~10/5)を見て~わたしの写真とはいろんな意味で違うところが魅力的なのですが~広島へ・・・と簡単に考えていたら、鳥取からの高速バスでは5時間以上(高速かい?)、米子にでれば3時間20分とのんびり中国山地を越えて行きました。お土産はいつもユーハイムのバウムクーヘンです、このお菓子は第一次世界大戦時に捕虜になったドイツ兵が似島に収容されていて、この中で(まだ捕虜は正当な扱いを受けていたのです)ユーハイムさんがバウムクーヘンを焼いて広島県物産陳列館(原爆ドーム)に出品し人気を博し、捕虜から解かれて横浜に菓子店を出店しました。
※本blog「似島へ 広島HROSHIMA<アジア太平洋戦争④-6>」参照。

鳥取経由広島行002横浜港
東京港(江東区青海)。

鳥取経由広島行003鳥取
鳥取空港へ。

鳥取経由広島行004鳥取駅
鳥取駅、米子へ。

鳥取経由広島行005
高速バスで島根県を走っている、秋。

鳥取経由広島行007紙屋町地下街
紙屋町地下街。

鳥取経由広島行008横川駅
広電横川駅(JR横川駅前)。

鳥取経由広島行009広島護国寺
広島護国神社(1956年より広島城内)。

鳥取経由広島行010中国管区司令部跡
中国管区司令部跡(半地下式、護国神社前)。

鳥取経由広島行011大手町OKONOMI ISLAND祐源紘史作
大手町中電むかい、OKONOMI ISLAND祐源紘史作。

鳥取経由広島行012基町市営住宅太田川
基町高層アパート群、太田川。

鳥取経由広島行014相生橋太田川
相生橋、太田川。

鳥取経由広島行015平和公園市女慰霊碑
平和公園市立高等女学校慰霊碑(1948年建立、占領下のため「原爆」の語が使用できず、原子力エネルギー公式が刻まれている)。

鳥取経由広島行016平和資料館
炸裂時の市内模型(広島平和記念資料館)。

鳥取経由広島行017平和資料館黒い雨跡
黒い雨跡(広島平和記念資料館)。

鳥取経由広島行018平和資料館ガラス瓶
ガラス瓶(広島平和記念資料館)。

鳥取経由広島行019島内科外科Hypocenter
爆心地直下の島内科外科 Hypocenter。

続・被爆樹木 広島HIROSHIMA<アジア太平洋戦争⑥-4>  

「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」原民喜碑(原爆ドーム横)より。

被爆樹木2-001カイヅカイブキ1900ふくしま保育園東移植
カイヅカイブキ ふくしま保育園東・・移植 1900m(爆心地からの距離、以下同)。個人宅の庭木だったものが爆撃・爆風・大火と残留放射能の被曝に遭って、原子野にかろうじて生きながらえて、寺社(そこもやられているのですが)や公共機関内に移植されている例も多いのです。

被爆樹木2-002シダレヤナギ370青少年センター西
シダレヤナギ 青少年センター西 370m。被爆樹木としてのこっているものとしては、爆心地から最も近い樹木です。柳は水辺、凄惨をきわめた太田川のほとり。

被爆樹木2-003シダレヤナギ450こども文化科学館東
シダレヤナギ こども文化科学館東 450m。

被爆樹木2-004シロダモ890長遠寺
シロダモ 長遠寺(大手町) 890m。樹勢がかなり衰えているようでした。

被爆樹木2-005クスノキ1850三篠小移植
クスノキ 三篠(みささ)小学校・・移植 1850m。

被爆樹木2-006ソメイヨシノ1800碇神社ヒコバエ
ソメイヨシノ 碇神社(白島九軒町)・・ヒコバエ 1800m。

被爆樹木2-007クスノキ1870光隆寺ヒコバエ
クスノキ 光隆寺(三篠一丁目)・・ヒコバエ 1870m。

被爆樹木2-008ナツミカン1700光明院移植
ナツミカン2樹 光明院(白島九軒町) 近くの山陽線土手から移植 1700m。みかん、たわわ。

被爆樹木2-009ソテツ1880心行寺移植
ソテツ 心行寺(白島九軒町)・・移植 1880m。

被爆樹木2-010アオギリ1300平和資料館前移植
アオギリ 原爆平和資料館前・・1300m地点で被爆し現在地に移植 1300m。

被爆樹木2-011イチョウ1370縮景園
イチョウ 縮景園 1370m。爆風で爆心地側に倒れ込んでいる。なお、縮景園は日清戦争時に広島城に大本営が移った際に副本営として使われた。

被爆樹木2-012ムクノキ1370縮景園
ムクノキ 縮景園 1370m。爆風になぎ倒されかかったというべきか、大きく傾いたまま猿猴川に落ちそうに、そして敷地からも大きくはみ出していた。

被爆樹木 広島HIROSHIMA<アジア太平洋戦争遺跡遺品⑥-3>  

広島市内(とくに爆心地の周囲1500mぐらいのところ)55個所に170本の「被爆(そして被曝もしているわけだが)樹木」がのこっています。枯れてしまってすでにないものもありますが、多くはこの時季に実をたくさんつけていました。有名な木もあるようですが、多くは他の街路樹や樹木にまぎれています。中には被爆で枯れて、その根元のひこばえから再生したものもあり、しかも5年後に芽を出した木もありました。

被爆樹木001プラタナス天満小1270
プラタナス 天満小学校 1270m(爆心地からの距離、以下同)。小学校の体育館脇に3本が並んでのこっている、大きな傷がつき洞になっているが葉を大きく広げていた。

被爆樹木002クスノキ天満橋西1160
クスノキ 天満橋西側 1160m。

被爆樹木003ナツメ西観音町1430
ナツメ 西観音町(平和大通り) 1430m。傷口の上の方には赤い実がいっぱい実っていた。

被爆樹木004クロガネモチ観音小1770
クロガネモチ 観音小学校の片隅 1770m。個人宅から移植した。

被爆樹木005クスノキ観音小1800
クスノキ 観音小学校塀際に4本が並んで繁っている 1800m。

被爆樹木006ユーカリ二の丸740
ユーカリ 広島城二の丸 中沢啓治「ユーカリの木の下で」という作品の木 740m。幹には炭化した傷が残り痛々しい。
 
被爆樹木007ユーカリ広島城二の丸740
同じユーカリ 広島城二の丸 740m。ユーカリというとまっすぐにすっと背高く伸びているというイメージを抱いていたが、大きく枝垂れていた(台風により幹が途中から折れたこともあるのでその影響かも知れない)。

被爆樹木008クロガネモチ広島城910
クロガネモチ 広島城 910m。他に2本ありオレンジ色の実をたくさん付けている(日清戦争時にここに大本営が置かれ、その庭園に植えられたという)。

被爆樹木009マルバヤナギ二の丸740
マルバヤナギ 広島城二の丸 740m。幹には手当ての「包帯」が巻かれている。

被爆樹木010サルスベリ善正寺1100
サルスベリ 善正寺(寺町) 1100m。花はすでに終えていたが、たくさん咲いたようだ。

被爆樹木011ソテツ西本願寺別院1150
ソテツ 西本願寺広島別院(寺町) 1150m。

被爆樹木012イチョウ報専坊1130
イチョウ 報専坊(寺町) 1130m。左下のバケツ数杯に銀杏がぎっしり。
真田氏10万石の松代はNHK「真田丸」に沸いていたというほどの活気はなかった。その松代城(跡)から南へ800メートルほども行ったところに象山(佐久間象山にちなんだ名、壕は佐久間象山とは全く無関係)475mがある。その脇腹に掘削した地下壕6キロが残り(周辺地下壕をあわせ10キロ余)無料で見学ができます。壕横には小さな資料館があり、丁寧な説明付で200円、保存運動を担う方々の努力で公開されています。象山ばかりではなく弘法山、舞鶴山、皆神山などこの地域一帯が「首都・国家・大本営=軍中枢疎開」のために、1944年11月から工事が始められました。天皇・皇族・賢所・政府機関・大本営・軍上層部・NHK・通信施設・印刷局等々がここに疎開し、自らは周囲の山々と地下の壕とぶ厚い(1m)のコンクリートで守られながら「本土決戦」を準備していたのです。沖縄を時間稼ぎの「捨て石」にしながら、地元の人々の農地を強制収容し、多くの国民と6000名の朝鮮人を各地の現場からの動員と朝鮮半島から強制連行し突貫工事を行い、敗戦時には75%を完成させたが未完成のまま連合軍上陸前に一切の文書を焼き払いました。

松代大本営・象山地下壕001
ここは政府・電話局・NHKなどが入る予定だった。

松代大本営・象山地下壕002
1995年に建立実行委員会により建てられた「松代大本営朝鮮人犠牲者慰霊碑」、壕入り口すぐ右手。

松代大本営・象山地下壕003
突貫工事に携わった人々が頼りにしたカーバイトカンテラ。

松代大本営・象山地下壕004
「三種の神器」を置く「賢所」(これによって天皇が崩御しても「国体護持」がはかれるのだそうだ)を弘法山(ここ象山の南側)に建設するに当たり、熱海の丹那トンネル工事に従事していた鉄道学校生徒たちを「純粋の日本人」として動員したという、ここの管理者の方の話が「優生思想」を思い起こしリアルにひびいた。

松代大本営・象山地下壕005

松代大本営・象山地下壕006
資材、ズリなどを運ぶためのトロッコの枕木跡も残っている。

松代大本営・象山地下壕007
構内には作業者の記した文字(漢字、ハングル)が多く残っているという。左は「大邱(テグ)府大邱」、右は(わたしは)制帽をかぶった軍人か監督官の絵ではないだろうか。

松代大本営・象山地下壕008
ダイナマイト用の穴を掘る削岩機のロッドが残っていた。

松代大本営・象山地下壕009
縦穴と横穴がクロスする。ときおりコウモリがひらひらと舞っていく。

松代大本営・象山地下壕010
1873年(明治6年)疲弊した松代に産業をと、大里忠一郎らが民間製糸場「六工社」をつくり「六工社生糸」は世界的にも知れ渡った。その一角の女工娯楽所が労務(朝鮮人職制)慰安所になった。

松代大本営・象山地下壕011
天皇、侍従、侍従武官用のⅠ号舎(厚さ1mのコンクリートで造られ地下御座所とつながる)。現在は、気象庁の観測所で無人となったがデータが気象庁に送られている。なお1965年から5年間続いた「松代群発地震」は皆神山を震源とするが、いまなお小さな地震が続いているという。

松代大本営・象山地下壕012
同外観(草木でカモフラージュされていた)、同じような建物が3棟並んでいる(それぞれ、天皇、皇后、宮内省用)。

プロフィール

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

QRコード

ご意見・ご感想などこちらから

カウンター