写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

第二都市 釜山<アジア太平洋戦争⑥-16>  

少し軽い気持ちでいたことを今は恥じている。帰り支度をして、やや観光気分で釜山の胃袋=チャガルチ市場を見て、釜山タワーから市街と港を撮影して、「国際市場で逢いましょう」の世界を覗いて・・・と。歩いてみれば独立運動を資金面から支え続けた実業家の「白山記念館」(休み)、龍頭山から下りる途中に現れた旧日本家屋?、富民橋、西南部には旧遊郭地域も残っている。古書街の中から急激にのぼる階段も登って見るべきだったろうか。もう一度ネジをまき直して、かつての植民地化の一方の中心であり、関釜連絡船の埠頭の街・釜山をまた、そして下関にも行ってみよう。

再釜山001
チャガルチ市場。

再釜山002
同市場。

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釜山タワー(南)下、旧日本家屋?

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釜山港(一部)。

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富民洞「臨時首都記念館」近くから。山の上まで密集した家屋が釜山の「風物」だが、いまでは高層アパートが取って代わっている。

再釜山006
旧富民橋親柱の1。「十四年八月竣工」と読めるが、上は砕かれている、「大正」と記されていたのであろう。

再釜山007
旧富民橋親柱の2。ここに富民橋がかかっていたということだ。地形から判断して北側の山の方から流れていたと判断したが、1919年の地図を見ると間違いなく「宝水川」という釜山の主要河川であった。地下鉄「チャガルチ市場」駅はちょうど河口になる(駅そのものはその後の埋め立てでできた地盤にできたようだ。広い道路の下は暗渠かも知れない)。

再釜山008
富民洞東側、旧日本家屋か?(あちこちで)老朽化した瓦屋根の家は、このように屋根をそっくり樹脂でコーティングしている。見た目はともかく、安価で雨漏り対策と瓦の保護はいちおうできるということ。

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宝水洞古本屋街。「JAZZ IT UP」の韓国版(2003年南武成氏 の作品、台湾版の次に日本版が出た)をさがしたが見つからなかった。

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国際市場。

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国際市場、ここにも旧日本家屋と思われる?建物がさりげなく存在している。

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国際市場。南浦駅東のロッテモール横にも何軒か旧日本家屋?があったが、次回いくときにはもう無いだろうという感じだった。

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古墳の街 慶州Gyeongju市内<アジア太平洋戦争⑥-15>  

金銀珠玉類がざくざくと出た金冠塚の発見は、隣接した酒屋の工事中に偶然埋葬品が見つかってのことでした、この「金冠塚」発見が古墳の「発掘」「盗掘」と出土品の「蒐集」にいっそう火をつけるきっかけともなりました。「墳墓は国法と鬼神にたいする恐怖とがこれを発掘せしめざりしをもって、慶州付近には新羅時代より高麗時代を経て現代にいたるまでの古墳新墓相錯雑して遺存し」しかし「近年韓国政府の政令紊弛の結果として、盗掘しきりに行われ、その盗掘品は日本商人の手に帰し(ている)」(1906年以降に記された今西龍の文章。『コロニアリズムと文化財』荒井信一、岩波新書より孫引き)それは日本による韓国朝鮮の植民地化と軌を一にするものにほかなりません。日本にある韓国文化財は、合法的・不法的合わせて30万点にのぼるといわれ、所在が分かっているのがそのうちの1割だそうです(同書より)。今年、対馬の「観世音菩薩座像」を大田地裁が韓国の浮石寺への引き渡しを命じた件については、わたしは納得がいきませんが・・・今回はこれ以上触れません。

慶州市街001中
1921年9月発見時(ごろ)を描いた金冠塚周辺(慶州博物館展示。古墳の周囲には家屋が密集していたのがよく分かる、朴正煕大統領時代に家屋を一掃した)。

慶州市街002-01
現在の金冠塚。1921年に金冠など貴重な出土品が多数出たが、その場所、全体の構造などの調査が不徹底のため、その他の古墳と合わせ2014年に再発掘調査を行った。直径47メートル(超)の巨大な円墳であったが、発見当時の姿に埋め戻されたようです。

慶州市街002-02
路西洞古墳群。この古墳群の東側に金鈴塚をふくむ路東古墳群があり、南側は皇南大塚などたくさんの古墳が連なった大陵苑(有料200円ぐらいだったか?)があります。

慶州市街003
路西洞古墳群。市民の憩いの場でもあり、近道にもなっています。

慶州市街004
路西洞古墳群。再調査中の瑞鳳塚。すぐ向こうが金冠塚。

慶州市街005
チョクセム遺跡発掘中(小型の後楽園エッグ・ドーム様に覆われ、見学・説明も兼ねている、無料)。この一帯は慶州駅の南側だが、広大な地域がほぼ更地になって今後の発掘を待っている。

慶州市街007
路東古墳群。

慶州市街008
市内中心部、といっても歩いて回れる範囲です。

慶州市街009
土曜日は定例の朝市が中央市場に沿った道路に開かれます。近隣各地から野菜・果物をはじめ花や雑貨まで様々な物が売られています。「量が多すぎじゃないの?」と心配しますが、お得意さんもいるのでしょう、昼すぎには売り切れでした。

慶州市街010
同朝市。

慶州市街011
大陵苑裏の7-elevenも韓式、スターバックスも・・・古都のイメージを守るということでしょうか。

慶州市街012
大陵苑内の小さめの古墳「天馬塚」の内部、ここからも見事な金冠をはじめ貴重な出土品が出ています。

慶州市街013
チョクセム遺跡から大陵苑を望む。古墳群の写真ばかりでしたが小さな商店街もあります。スンデクッ(スンデは春雨・餅米などいろいろ詰めた豚の腸詰めで、クッがスープ。アミの塩辛とコチュジャンなどで自分流に味付けして食べます。ついご飯を手に持ってしまいますが、こちらではいけません)、いろいろ付いて700円ぐらい。豪勢にいきたい人は「宮廷料理」なんかもあるようです。


運の良いことに国立慶州博物館では3/7~5/7まで、2015年に世界遺産に登録された百済Baekjeの歴史遺跡(公州、扶余、益山)の特別展800点を行っていました。現在の慶州を都とした新羅文化と、西に位置した百済文化を同時に見ることができたわけですが、今回は「小倉コレクション」との関連で新羅出土品・遺品をとりあげました。古都慶州は、韓国の市街としては珍しく「高層アパート群」のない(市内は規制されて、郊外にありますが)落ち着いた街です。市内いたるところに古墳が連なり(次回)、まだまだあちこちで発掘が行われています・・今後さらに古代の朝鮮半島の文化が解明されることでしょう(ただし、車には要注意!です)。

・001金冠5C新羅
金冠5C新羅。

・002金冠金袴帯6C天馬塚
金冠金袴帯6C天馬塚。

・003金製耳飾5-6C新羅
金製耳飾5-6C新羅.。

・004金鳥翼形冠飾
金鳥翼形冠飾。

・005金銅製飾履新羅
金銅製飾履新羅。

・006金銅仏立像9C統一新羅
金銅仏立像9C統一新羅。

・007人物土偶
人物土偶。

・008石像観音菩薩立像8C統一新羅慶州狼山
石像観音菩薩立像8C統一新羅慶州狼山。

・009石仏立体拓本新羅
石仏立体拓本新羅。

・010土製瓶類新羅
土製瓶類新羅。

・011南山弥勒三尊像7C新羅
南山弥勒三尊像7C新羅。

・012百済特別展石板文字
百済特別展石板文字に見入る人。

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以上「小倉コレクション」(既出)に極めて類似する出土品を中心に(これは、いっぱいありました)を載せました。以下「小倉コレクション」と、最後は1925年ごろに南山で出土した弥勒菩薩像の写真です。

小倉コレクション5C金冠
小倉コレクション5C金冠。

小倉コレクション金製耳飾
小倉コレクション金製耳飾。

小倉コレクション6C鳥形冠飾
小倉コレクション6C鳥形冠飾。

小倉コレクション 8C薬師如来
小倉コレクション 8C薬師如来。

小倉コレクション5-6C土偶
小倉コレクション5-6C土偶。

1925年ごろ発掘時
1925年ごろ発掘時の弥勒仏の写真。

乃台事件 釜山Busan<アジア太平洋戦争⑥-13>  

この2月に出版された小説『関釜連絡船上下』(李炳注イ・ビョンジュ、藤原書店)下巻の頭に出てくる事件です。また、2003年の『韓国歴史漫歩』(神谷丹路カミヤ・ニジ、明石書店)の189ページに「最後の独立運動-乃台事件-」と描かれてもいます。(『連絡船』からほぼ引用ですが・・・)
1940年11月23日釜山公設運動場で慶尚南道内の中等学生の第二回学徒戦力増強国防競技会が開かれた(種目は戦時色濃厚なものだった)。前年は東莱DONGNAE中学が1位だった、同中学は朝鮮人の通う学校だった。審判長の慶南地区衛戍(駐屯の意)司令官兼中等学校軍事教練総監督官の乃台大佐は、前年の優勝校から入場行進を始める規定を無視し日本人学校である釜山中学校を筆頭に入場させた。東莱中学生徒がこれに抗議したが受け入れられず、競技でも東莱中学が1位になった種目は「判定保留」として後に減点すること10数種目にわたった。優勝のかかる最終競技でも東莱中学が1位になったが、乃台審判長の命令で服装検査をし東莱中学を失格とし、釜山中学を優勝させた。閉会宣言後、東莱中学生徒を筆頭に抗議し、二手に分かれた抗議デモが運動場から始まり、一部は乃台大佐の官舎に投石した。デモ解散後の夜から一斉検挙が始まり、150名の生徒が検挙され、東莱中学学生4名、釜山二商生徒6名が拘束起訴された。・・・『歴史漫歩』では、閉会式の君が代斉唱の時に、朝鮮人生徒たちはアリランを歌い「テンノウヘイカゼンザイ!」を叫び・・・夜の憲兵隊の報復により東莱中学9名、釜山二商6名が拘束され6~8ヶ月の実刑に処されたという。東莱中学の後身の東莱高校では「11月23日」を「東莱高校の日」と定め、毎年記念行事を行っている~とのことです。
※(大佐とその取巻きたちの行為は)実に大人げないものですが、「内鮮一体」を標榜した植民地支配の実態をもまた現しています。

乃台事件001
東莱高校校門、横断幕はこのとき引き揚げられた「セウォル号事故3年の追悼」のものです。

乃台事件002
高校の周囲をまわってみました、小さな雑穀屋さん(その前に露天の八百屋さんに小さく味の良いトマトをいただきました)。

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伝燈寺。

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下が携帯電話店で、上が英語塾でしょうか。

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この奥は中層のマンションになっています、そのゲート。

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「運動場」の場所が分からず「近代歴史館」に向かう。植民地時代のメイン・ストリート「大庁路」からの「釜山タワー」(工事中)、このタワーを中心に日本租界があった(江戸期の草梁倭館跡地)、日本人街は埋め立てにより拡大された。

乃台事件007
釜山近代歴史館(旧東洋拓殖株式会社釜山支店1920年建立~単なる会社ではなく、植民地支配の中枢)。

乃台事件008
1930年の「大庁路」の写真(近代歴史館展示)、右が東洋拓殖株式会社釜山支店。

乃台事件009
近代歴史館で「運動場」を確定し、公設九徳運動場に行く。韓国の公園、河岸などにはこうした運動器具が設置され利用されています(九徳運動場)。

乃台事件010
現在は立派な運動場・競技場になっている、背後の高層アパートはいまでは韓国の典型となっています(既述)。

乃台事件011
運動場東方面。

乃台事件012
運動場南側(「エンジン修理」と書いてあります)。

韓国で地下鉄のある都市は、ソウル、仁川、釜山、大邱、光州、大田の6市。鉄道は在来線とKTX(快適な新幹線)ですが、バス網も発達していて多くの人々が利用しています。ちょっとした町には、「市外バスターミナル」その近くに「市内バスターミナル」があって繋がっています。そのターミナルの周囲には食堂、雑貨、宿泊施設などが最低限そろっていますので、大変便利です。※鉄道は、釜山~ソウル(植民地時代の「京城」)を経て中国東北部(同「満州」「満鉄」)に繋がっていて、日本の侵略の大動脈となっていました。※昨日、水原での韓国水原-川崎のサッカーで川崎サポーターが旭日旗を持ち込み没収されたということです、川崎サポーターはかつての侵略と戦争を知らないのでしょうか?(水原といえば、提岩里JEAMRI事件の地にも近いというのに・・・わたしの世代ではベトナム戦争時のソンミ村事件を思い出させます)

ノポ釜山総合バスターミナル001
地下鉄1号線終点「老圃NOPO」と釜山総合バスターミナル(東部-西部にもある)を結ぶ通路は食事、衣服、日用品など必要最低限の品がそろう。

ノポ釜山総合バスターミナル002
看板真ん中の黒いハングルが「ODEN」と読む、文字通り日本の「おでん」、練り製品が中心で味付けも少し違うが「おでん」そのものでした。

ノポ釜山総合バスターミナル003
大きなチケット窓口があるが、自動券売機を使って購入する人が増えているようだ。

ノポ釜山総合バスターミナル004
これは昼間撮影したものだが、右手に100台ぐらいが待っていて、発車時間が近づくと左のプラットフォーム(番線)に入る。

ノポ釜山総合バスターミナル005
乗車時にチケットをセンサーにかざすと、予約された席がオレンジに変わる、予約しても来ていないと緑のままなので運転士がさがす。

ノポ釜山総合バスターミナル006
韓国の交通費はとても安い。今回は釜山BUSAN~慶州GYEONGJUまで高速バスで50分、40キロ余だろうか、円換算すると480円(4,800ウォン、為替が関係するにしても安い、タクシー、KTXなど鉄道も・・日本が高すぎるとも言える)。

ノポ釜山総合バスターミナル007
老圃NOPO

ノポ釜山総合バスターミナル008
釜山の人気ナンバーワンは「ODEN」で間違いなし、朝も昼も夜も長い串のODENを食べている、カラシがないのが残念。

ノポ釜山総合バスターミナル009
共働きご夫婦(らしい人)の娘さんたちも地下鉄車内でこんな感じです。街中にもいっぱい屋台が出ます。

ノポ釜山総合バスターミナル010
黒っぽい服装の人がけっこういて、最初は警備関係の人かと思いましたが普通の労働者のようでした。一杯飲んでいっしょに帰るところです。

ノポ釜山総合バスターミナル011
韓国の鉄道駅周辺の典型的風景となった高層アパート群と教会・・・一号線車内から。

ノポ釜山総合バスターミナル012
西面SEOMYEON。

横浜大空襲その2 元町周辺<アジア太平洋戦争⑥-11>  

わたしが小学校1年というとそろそろ戦後10年というころですが、日本への空襲は「木と紙の家」を焼き尽くす焼夷弾が主でしたから(通常爆弾、機銃掃射、艦砲射撃もあったが)鉄筋コンクリートの建物は比較的のこっていた。その焼け跡に人が住み、通学のときになぜか怖い思いを抱いた・・・住んでいる人に大変申し訳ないことでした。※モノクロ写真は横浜市のサイトのものをお借りしました。※ついでに言っておくと、都内には空襲で焼け出された人々がバラックに住んでいるところがいくつもありました(1964年の東京オリンピック前に取り壊し都営住宅などに移転・入居)。わたしのクラスにもそこから通っている子がいて、何か無くなると先生が彼を疑る(公言する)のですからひどい民主教育でした。こういうことを書くと抑制が効かなくなってあれもこれもとなりそうですがひと言、1958年に東京アジア大会が開かれ、オリンピックの誘致が目的でした。このころから、外国人にきたないところを見せてはみっともない~という日本人特有の意識が強く働き、バラックの撤去、まだ漁村だった羽田は日本の玄関口になるのに汚いというので、都内に入る道路の両側に企業の大看板を付けて見えなくしました「臭い物にはフタ」です。川は暗渠(どぶ下水)になりました。

001汐汲坂から中華街方面
汐汲坂から中華街方面(手前が元町)

002百段坂公園から中華街方面
百段坂公園(汐汲坂の東側、むかしは百一段の階段の上だったが関東大震災で階段は崩壊した)から中華街、左手が「みなとみらい」、まったく面影がない!

003フェイリスから西の橋
フェリスから、手前の大きな橋が西の橋むこうが関内方面(磯子線は1964年にできる)

004フェイリスから石川町
フェリスから石川町、前の写真の左手にあった3つのビルがこの右手のビル(現在も似たようなビルがあるが、戦後のもののようだ)。おなじ連続写真だが横浜中心部はビルが多いので焼け残っているが、こちらは「木と紙の家」なので焼夷弾によって焼け野原になっているのが分かる。

005堀川西の橋東寄り
現在の西の橋(東側より)。東京同様、川・運河の上は首都高3号線と横羽線が交差していて昔の面影がないというか、土地勘のないわたしなどはどっちがどっちだか分からなくなる。右に行くと中華街へ(中華街から元町商店街へと人が流れる)

006元町商店街
丸焼けとなった元町商店街

007元町商店街
現在(4/2)の元町商店街、おしゃれな街として人気がある

008元町商店街
同じく元町商店街、4/2は日曜日それも久々に暖かくなったのでこれから人がでてくる







2/2付の「小倉コレクション」の続編となります。異国の文化財とりわけ美術品に魅了されて蒐集する、その気持ちは理解できます。20世紀初頭から東京にきたイギリス人弁護士ジョン・ガスビーはそうした蒐集家の一人で、高麗青磁に憑かれ「ガスビーコレクション」といわれていた。しかし1936年の「226事件」を契機に日本とイギリスの関係を危惧し、全コレクションを韓国人の澗松(全鎣弼)に手渡し、日中戦争、太平洋戦争、朝鮮戦争にも耐え抜き現在も韓国に保存されている(「失われた朝鮮文化」李亀烈)、という話もありますが(ガスビーの手に渡るまでの高麗青磁の遍歴は?という問題は残りますが)むしろ例外的な話で、日本を始め諸外国のコレクターに「死蔵」されているものの方が圧倒的に多いようです。

001多紐細文鏡BC3-1C慶尚南道小倉
多紐細文鏡BC3-1C慶尚南道

002壺BC1-AD3C平壌小倉
壺BC1-AD3C平壌

003緑釉竈1-3C楽浪古墳小倉
緑釉竈1-3C楽浪古墳。竈かまどのミニチュア、死者があの世でも暮らしていけるようにとの副葬品。

004金冠塚出土刀装具5C慶州小倉
金冠塚出土刀装具5C慶州

005銅製鐎斗6C慶尚南道小倉
銅製鐎斗6C慶尚南道

006鳥翼形冠飾6C昌寧小倉
鳥翼形冠飾6C昌寧。死者(強大な首長)に着ける飾り。

007印花文壺6-7C土製小倉
印花文壺6-7C土製

008緑釉壺7C陶製小倉
緑釉壺7C陶製

009孔雀明王座像7C小倉
孔雀明王座像7C

010慶州南山出土品8C小倉
慶州南山出土品8C

011瓦塔8-9C土製小倉
瓦塔8-9C土製

012金銅八角舎利塔8-9C光陽小倉
金銅八角舎利塔8-9C光陽


きょう3月10日は東京大空襲72年(明日は東日本大震災6年)、東京都慰霊堂で大きな法要が行われましたが、ここ墨田区立川の弥勒寺でも20名ほどでの小さな戦災忌が営まれました(昨年の模様は、<アジア太平洋戦争⑤-14>を参照してください)。午前11時から戦災殉難慰霊観音像(片岡静観作)の前で住職がお経をあげ参列者が焼香、午後1時半から本堂での法要、そのあと菊川橋の夢違之地蔵(ユメタガイジゾウ)尊で各町内から合流して合同での慰霊式が営まれるという3部の戦災忌でした。弥勒寺の観音様の下には名前も分からない3600名の方々が眠っています、この地は遺体が山のように折り重なっていたということです。




左はお孫さんでしょうか。



前回の伊勢佐木町も、27回に渡る空襲、とりわけ1945年5月29日の「横浜大空襲」により焦土と化しました。以前、日ノ出町、黄金町、霞ヶ丘、平沼橋(<アジア太平湯戦争遺跡・遺品①-7>所収)を撮影しましたが、今回は京急の南側を当時の写真を手がかりに歩いてみました。伊勢佐木町と野毛は場所が確定できませんでしたが、吉田橋と馬車道(が一つながりであることに今回初めて気づいたのですが!?)は特定でき、また当時の建築物が現在も活躍していることに驚きました。

1)伊勢佐木町
馬車道野毛001泉門三郎氏寄贈45
泉門三郎氏寄贈(横浜市ウェブサイトより、以下同) 1945年撮影。

2)吉田橋
馬車道野毛003米国立公文書館
米国国立公文書館所蔵 1946年7月4日独立記念日のパレード。

馬車道野毛004
上の写真の撮影位置は現在JRの高架上あたりですので、かなり手前下方やや左手からの撮影になりましたが、正面の「BAZAR」と書いたビル(イセビル)はよく見るとほぼ同じ、胸ときめく。大修繕をやってのことでしょうが、1927年(昭和2年)落成です。なるほど、伊勢佐木町から馬車道へはまっすぐつながった道路で往年は賑わったのですが、現在は横羽線、JR高架と味気ない空間になって分断されています。人の流れもまっすぐいかず、関内駅に吸い込まれていきます。

馬車道野毛005
イセビル(現「第一イセビル)の階段 すり減って築90年を物語る。

馬車道野毛006
1859年(安政6年)横浜が開港し施設充実のために入海であったところに木橋をかけ吉田橋と銘々した。現在の橋は1869年(明治2年)イギリス人ブラントンによって付け替えられたトラス鉄橋が元の、5代目となる。下はすでに首都高横羽線になっている。初期に治安のために関所が設けられ、関の内側(港側)が「関内」、外側が「関外」と言われるようになったという。

3)馬車道
馬車道野毛007米国立公文書館4509
米国国立公文書館所蔵 1946年9月20日撮影。

馬車道野毛008
右手オレンジのオブジェのところは「横浜宝塚劇場」(現・市民文化会館関内ホール)、上の写真で人がいっぱい集まっているところ。道路奥にアーチが見えるが、その上の青いドームが「横浜正金銀行」(現・県立歴史博物館、休館中)。「宝塚」の向かいの四角く目立つ建物が見つかりました、次の写真で紹介します。

馬車道野毛009
広東料理で有名な「生香園」(本店)でした。

馬車道野毛009-2
「生香園」を対角から見るとけっこう大きな建物で、むかしは何に使われていたのか分かりませんでしたが。

馬車道野毛010
「横浜正金銀行」ここで記念写真を撮って赤レンガ倉庫に向かう定番コースですが「日銀は内国を経理して外国に当たり 正金銀行は海外を経理して以て内国を益し・・・(略)」(松方正義蔵相)と位置づけられた極めて重要な銀行でした。相次ぐ戦争を金融面から支えていたとも言えるでしょう。

4)野毛
馬車道野毛011山室忠一氏寄贈4506
山室忠一氏寄贈 1945年6月撮影。やや上方から撮影しているので野毛の高台からでしょうか、道路には市電の軌道らしきものがみえるので当時の経路を調べればもう少し分かってきそうです。正面には焼け残ったビルが多く見えるので尾上町や港近くの方向らしい。

馬車道野毛012
上の写真はもっと左手だと思いますが(よく写真を見ていて手前が県道218号、その向こうが大岡川~となると逆に右側!?)成田山別院から。この辺も同様な惨状だったことでしょう。

大英博物館、ルーヴル美術館をはじめ、かつての植民地宗主国の主要な美術館収蔵品は、その植民地の(合法=購入など、非合法=収奪、強奪、盗掘など)宗教的歴史的文物や美術工芸品が中心になっている。旧植民地側からは当然ながら返還の要求があるが、メトロポリタン美術館などの一部を除いて返還の動きは少ない。
日本の植民地時代の朝鮮では、電力事業を推し進めた小倉武之助が古美術の収集を行い、数千点を所有していた。敗戦時にそのうちの1000余点を船で日本に運び「小倉コレクション」として保存していたが、1960年代の日韓条約の交渉時に韓国側から返還を求められた。しかし、日本側は「個人の所有物」ということで突っぱね、小倉の死後、国立博物館(上野)に寄贈され現在東洋館で一部であるが公開されている。この「小倉コレクション」については、もう少し調べていこうと考えています。
追記:岩波新書『コロニアリズムと文化財』(2012年、荒井信一)が分かりやすくまとめている。とりわけ、21世紀に入り多くの美術館、博物館、大学などから「寄贈」という形が多いが、実質返還が実現している。とはいえ、それは全体のごくごくわずかな胎動でしかない。~3/1記
。       

小倉001 冠5C
冠 5C

小倉002 薫炉BC2~1C
薫炉 BC2~1C

小倉003 高坏BC4~2C
高坏 BC4~2C

小倉004 毘盧舎那仏立像9~10C
毘盧舎那仏立像 9~10C

小倉005 薬師如来立像7C
薬師如来立像 7C

小倉006 獣文飾板BC3~1C
獣文飾板 BC3~1C

小倉007 単龍文環頭大刀6C
単龍文環頭大刀 6C

小倉008 土偶5~6C
土偶 5~6C

小倉009 土製勾玉5~6C
土製勾玉 5~6C

小倉010 緑釉博山炉1~3C
緑釉博山炉 1~3C

小倉011 銅製三環鈴5~6C
銅製三環鈴 5~6C

小倉012 菩薩半跏像7C
菩薩半跏像 7C

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