写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

充電式日録 9 July, 2017 写真展準備中 パンソリへ  

7/9(日)パンソリ 水宮歌を聴きに神保町チェッコリへ、時間待ちしていたら満員でした。安聖民氏の素晴らしい声と歌、ユーモア溢れる大阪弁を楽しみました。18Cに確立したものだそうで、もともとあった民話に両班が中国の古典などの話を加えていって成り立ったという、(少しかじっただけなので当てになりませんが)民話的なところと古典的なところが「木に竹を接ぐ」ような話が演者によって自然につながっていくのが面白い。語りと歌で展開していくので、日本だったら(イメージが全然異なりますが)浪花節なのか?イメージとしては紙芝居屋の話術に似ていると思ったのですが?


時間待ち


アンソンミン氏(演じる前です)


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かなり早めに準備していてよかったと思いました・・・歴史的な事実の説明をどうするかと?混乱すればするほど点数が増えてにっちもさっちも行かなくなっていました。だんだんと欲深爺になるところでした。??さっきからヒグラシが鳴いている、間違えて土中から出てきたのでしょう。


武蔵国分寺
昨年の写真展<東京36景>に続いて、今年は8/1(火)~8/21(月)の3週間おなじみのジュンク堂池袋3F文芸書売場で写真展<きょうのむかしとむかしのきょう>(韓国近代史を訪ねて)を開催します。まだ1ヶ月以上先なのですが、いかんせん手仕事で仕上げていくので少し早めからこつこつと作業を始めています。内容は、本blog<きょうのむかしとむかしのきょう>をまとめ・編集したものです。韓国6都市を巡る撮影行は、わたしにとっては父母の朝鮮時代(駐屯軍として、そして撤退軍としての)を噛みしめる作業でもあります。池袋近くにお越しの節はぜひお立ち寄りください。


案内状です。全州市外バスターミナル。


選択をほぼ終え、といってもあと5点ぐらい減らしたいのですがつらいところ。プリントした一枚々々をウッドラックパネルに貼って、周囲をカットしているところです、手内職ですね。さりげなく、友人谷古宇正彦くんの写真展「劇場の宇宙」(8/20~8/30、福島テルサ4階ギャラリー)(昨年11月に上田サントミューゼで開催した写真展をベースにしたものです)のチラシものぞかせました。こちらも、よろしく!

充電式日録10/12  

ただいま「充電中」なので「充電式日録」を掲載中なのですが、これも集中して勉強&整理中のため11月末まで「休載中」だったのですが…先ほどのNHK昼のニュースを見て、ひとこと。
昨日?東海村村長が細野原発担当大臣に、「東海第二原発の廃炉を」訴え「半径30キロ圏に100万人が暮らしている」「稼働後30年以上も経過している」旨の文書を提出した、そのシーンのあとに、お年をめした女性が「まったく正しい判断と行動だ」旨を答え、続いて若い女性が「この村は原子力で持っているのだから現在のまま続けてほしい」旨の街頭インタビューを流しただけ。賛否両論で安易にバランスをとったということなのだろうが、そんな扱いで良いのだろうか?
日本初の商業用原子炉を運転し、1999年には深刻な「JCO臨界事故」を起こしたところ。その村長がFUKUSHIMAの事故を受けて、どのような内部的かつ外部的葛藤をへて昨日の行動にいたったのか?その意義と今後への波紋・波及は?といった問題提起ぐらいほしいものだ。


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横浜、日の出町。

充電式日録9/26  

押上の駅を出ると、目の前にそびえ立っている「東京スカイツリー」。こんなものは撮るものかと日頃思っていたものの、「ツリー」だけが雲に隠れているとなると撮りたくなってしまった。
きょうの目的は、三井グループの神社「三囲(みめぐり)神社」と、隅田川を渡って浅草の「棗寺(なつめでら)」だが、前半を紹介して、撮影都合のためしばし休業とさせていただきます。再開は、不確定要素が多いのですが、11月下旬には、と考えていますのでまたよろしくお願いします。※棗寺では、住職からお父さん=前住職の話を聞かせていただきました。戦時中に日中の仏教者の交流のために危険を冒して中国に渡ったこと、戦後は秋田の「花岡事件」被害中国人の遺骨をバラックの寺に一時安置して中国に送還したこと、そのために警察につけ回されたが「日本人として当然のことをやっているのだ、恥ずかしくないのか!」と警官を一喝したのを昨日のように思い出す、と。


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東京スカイツリー。

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押上。「飛木稲荷」。

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向島、「秋葉神社」。狛犬は二頭とも戦災でやられたと思われる悲惨な姿だ(神社の人に聞くと「大震災か戦災か分からないが」という話だったが、建立は昭和なので「東京大空襲」であろう)。この辺は大震災と戦災の慰霊碑などが入り交じっている。

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向島。「隅田公園少年野球場」(通称「王さん球場」)、左の門柱にあるように王さんが子供時代に練習した野球場で、マンガでは荒川(のちの巨人軍コーチ)がネット越しにその素質を見い出したことになっている。小さい球場なので、いまは小学校低学年が主に使っているようだ。この日は、係員がていねいにグラウンド整備をしていた。

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向島。「三囲神社」、池袋店から移した「三越ライオン像」。

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「三囲神社」。これは「三柱(みはしら)鳥居」と言うんだそうです、下は井戸で「三井」の意でしょうか?

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「三囲神社」、「包丁塚」。向島というと家内小工場が集中していて、その途切れたところに料亭がいっぱいあるので包丁なのか。この神社は狭いが、さすがは三井家の神社だけあって「てんこ盛り」だ。

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「三囲神社」の「其角句碑」。江戸初期の干ばつのため其角が雨乞いの句を詠んだ、「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」。

充電式日録9/19  

1945年5月29日、朝から横浜をB29が襲った、「横浜大空襲」だ。
66年を経過すると、あたかも何もなかったがごとく町はひっそりとしているが、ゆっくり歩いて想像力を働かせてみると少しずつだが戦争の爪痕が浮かび上がってくる。今回は黄金町から三春台方向に登ってみた。
なお、黄金町というとかつては妖しい一帯であったが、2005年から若いアーティストを中心とした「町の再生」活動の結果、芸術と庶民の町に変わりつつある。こちら側もたんねんに歩いてみたい。


 ①
黄金町駅では、住民、電車の利用客が駅舎に逃げたが集中的な被害を受けた。駅前の現・タイムズ駐車場に遺体が積まれ 応急的に荼毘にふされた。駐車場の一角にも慰霊のお地蔵様がつくられたが、こちらは近くの普門院の地蔵。

②
赤門町。

③
町名の由来となった東福寺。この辺一帯も惨状をきわめた。向かいの当時3歳だった婦人の話だと、右手に防空壕があり、中の湧水で顔を洗ったこと、壕を出てみると路上に黒いもの(遺体)がいっぱいごろごろしていたことを忘れられないという。この山門も焼け、戦後再建された。

④
東福寺塀の石垣の焼け跡。

⑤
赤門手前に残る「皇紀2600年記念国旗掲揚塔」。

⑥
避難してきた人々が被災した東(あずま)小学校校庭下の水道メーター室。

⑦
霞ヶ丘自治会会館横の石垣にも防空壕があり、火炎により多くの方々が亡くなられた。慰霊碑と、観音様がある。

⑧
この辺は石垣の町だ。

⑨
霞橋の上下ともが、三春台方向からの避難者と黄金町、霞ヶ丘方向からの避難者とがぶつかり、混乱をきわめる中被爆し多くの方々が亡くなられました。

⑩
霞橋上。ここから久保山に向かった。

充電式日録9/12  

厚木の奥に七沢というところがある。温泉が湧き「神奈川リハビリテーション病院」があるので有名かな?その隣に「神奈川県自然環境保全センター」があり、「花粉の飛散しない杉」の育成とか、酸性雨や鹿が増えすぎて樹皮を食べられ森が枯れ始めている丹沢の再生など、広範囲に研究しているところだ。その谷戸を利用した森が一般にも開放されているので、たまに行く、もう10倍ぐらい広くても良いとは思うけれど。
毎日、暑い暑い…と思っているうちに、植物たちは確実に秋の装いをはじめている。


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イイギリ。実はもうすぐ真っ赤に染まり、少しずつ落ちてくる。

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アメリカデイゴ。

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「持ち帰り自由」と置いてあった。

充電式日録9/5  

むかし沖縄戦を体験した女性から聞いた話だが、校庭の的に向かって手榴弾投擲(とうてき)の訓練をさんざんやらされた、その的がどこの小学校にもいまだに残っているのが残念だ、と。その「的」は何と言うのだろうと調べたら、単刀直入に「投擲板」だった。現在では、沖縄をのぞいて「手榴弾投擲訓練用」とは考えられていないし、サッカーが盛んなのでサッカーボールを蹴り込むこともあるようだ。模様も多彩になっている、が。
いずれも我が家周辺で撮影。


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P1020652★rのコピー

「太平洋戦争写真館」より。女学生の手榴弾投擲訓練。
女学生投擲

充電式日録8/29  

相模ダム<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-2>に移行しました。

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充電式日録8/22  

7/25の続きという形になるが、前回撮り残した愛川町の「相模陸軍飛行場」(中津陸軍飛行場)に再度行った。まだ猛暑が続いていたが、敗戦間近に米軍機による機銃掃射跡が残るという「平山橋」に向かった。「米軍機による弾痕がある」というプレートが北側袂にあったが、6年前に樹脂塗装をしているので1個所は見つけたが、あとは分からない。
そこで南袂の民家を訪ね、当時10歳だったという男性に案内していただいた。その方の記憶は鮮明で、昭和20年7月1×日(郷土資料館学芸員の人から「10日」と教えていただきました)の日中、田代小学校(国民学校)裏手の山あいから数機の米軍機が突然現れ、橋上を馬で荷物を運んでいた男性や小学校寄りを歩いていた男性が機銃で狙撃されたそうです。小学校寄りの男性は腿を射貫かれ、その肉が横の土蔵の壁に張り付いていたのを見て恐怖に震えたそうです。橋の鉄骨の弾痕1個所は鉄骨を射貫いて、対岸の家の押し入れに逃げ込んだおばあさんを負傷させた。それまでは「勝った」「勝った」の話ばかりで戦争は「楽しいこと」だと思っていたら、この肉片がその考えを一気に変えたということでした。10歳の軍国少年にとっては衝撃だったのです。


愛川①
滑走路側は「内陸工業団地」になり、その広大さと平らさが飛行場だったことを物語る。

愛川②
南端に残る「格納庫基礎」。

愛川③
「排水溝橋」。排水溝は現在も生きている、この道路上だけは「橋状」になっていて、ここだけ二股になっている(強度上そういう造りにしたのだろうか?)。

愛川④
この学校の背後の山あいから米軍機が侵入してきた。講堂には生糸が集積されていた。

愛川⑤
鉄骨の弾痕(射出口)。その他に2個所見つけたが、まだまだあるのだと思う。

愛川⑥
中津川(相模川支流)。

愛川⑦
300万年前の地層から発掘された「古代象(アケボノゾウ)」全身骨格のレプリカ。

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