写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

花岡川から<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-1>  

※本日(1/4)、編集終了にともない②-1から②-17へと、昇順に改めました。
花岡事件。1945年6月30日(7月1日説もある。この食い違いは、単に発生日時の問題にとどまらず、1990年に始まった裁判と2000年に和解として終えたその内容をもめぐって「対立」しているが、ここではこれ以上触れない)夜、花岡鉱山で鹿島組の支配下のもとに強制労働させられていた中国人約800人が蜂起した。
1941年に日中戦争からさらに太平洋戦争へと戦線は拡大され、物資も労働力も極端に不足していった。朝鮮人の強制連行・強制労働でも間に合わず、1942年東条内閣は財界の要請をも受けつつ「華人労務者内地移入に関スル件」を閣議決定し、翌年「試験移入」、1944年に次官会議決定に基づき本格的な強制連行・強制労働を開始した(事実上はその以前からやっていた)。計画的に一定の地域を包囲して、徐々に包囲を狭めながら労働力となる男性を捕まえ、4万人近くを「内地」の鉱山・工場135事業所に配分して強制労働させていた。そのなかには、戦闘で捕虜にした国民党軍や共産党軍の軍人・兵士も含まれる。
花岡(現・秋田県大館市)では、花岡川付け替えの工事のために1,000人近くの「労工」が鹿島組で働かされていたが、衣服も与えず、食事もピンハネして小さく何が入っているか分からない饅頭ひとつで重労働が課された。そして、何かに付け補導員の棍棒がうなり、寒さと飢えと暴力によって連日死者が相次いだ。このままでは死を待つのみという状況下、捕虜軍人を中心にして蜂起し、朝鮮人労工、アメリカ人捕虜をも解放し武装して、中国に帰る計画だったが、失敗し、約500人は大館駅東の「獅子ヶ森」にこもるも全員が捕まり「共楽館」内・前広場での拷問でさらに犠牲が拡大した。
通称「ウサギ狩り」と称した「労工狩り」は、同時に包囲された村の物資の徴発=強奪、陵虐も行われ、「三光作戦」(殺光、焼光、略光…中国語。日本軍は「燼滅作戦」と言った)の延長上にあった。
以下は、2011年の「花岡事件」現地です。

※野添憲治、清水弟、石飛仁各氏の著書、さらに三光事件では平岡正明「日本人は中国で何をしたか」等を参考にしました。

①花岡川1中国人の血と汗と涙が流れる人工河川「花岡川」。撮影場所右手に信正寺、左手に昨年地元の人々を中心にしたNPOがつくった「花岡平和記念館」がある。

②花岡川いまは両岸に桜が植えられている。

③-1花岡川、大森川合流付近大森川との合流部近く。「雨だからコイぐらいだね」と。

③信正寺イチョウ曹洞宗 信正寺の樹齢650年のイチョウはすべてを目撃していた。

④岸信介 1942年7月、商工相岸信介が花岡堂屋敷坑を訪れ生産(主に銅)を鼓舞した(「花岡平和記念館」展示写真より)。

⑤信正寺「七ッ館弔魂碑」信正寺墓地内にある「七ッ館弔魂碑」、本来の場所は少し南の現・公園内。1944年5月、七ツ館坑の乱掘により上を流れる旧花岡川の底が抜けた落盤事故が発生し、朝鮮人11人、日本人11人が生き埋めとなった。地下からの通信音もあったが、折からの増産のために救出をせずに埋め戻してしまった。そして、旧花岡川の流れを変えて新花岡川を造る掘削工事を同和鉱業から請け負ったのが鹿島組であり、「花岡事件」の出発点も人間を人間扱いしない「戦争優先」から始まっている。

⑥黒鉱多くの(約500人)中国人がこもった「獅子ヶ森(標高225m)」下の「郷土博物館」展示の「黒鉱」。

⑦-1信正寺友子制度墓石
「花岡平和記念館」を訪れた人たちが、信正寺の友子(ともこ。鉱山内の親分子分の関係、肉親以上の信頼関係だったという。産業報国会に取って代わられたという)の墓(亡くなった親分の墓を子分たちで建てた)を見学していた。

⑦花岡鉱山旧繁華街黒鉱から銅、鉛、亜鉛などを採掘していた花岡鉱山も、1994年松峰(花岡南)坑の閉山。かつての賑わいの跡。

⑧小坂鉄道大館駅前跡小坂鉄道大館駅前跡。中国で捕まった中国人は、かつてのアフリカ~アメリカの奴隷船のように下関に運ばれ、ここから4日間弁当一個のみ水も与えられずすし詰めで大館まで運ばれ、小坂鉄道に乗り換え花岡に着いた。

⑨小坂鉄道大館駅と獅子ヶ森廃線となった小坂鉄道。ホームも駅舎もなく、線路のみが残る。

⑩沈殿池堤防滝ノ沢第二ダム、その向こうの沈殿池の底に中国人たちが収容された「中山寮」が眠っている。孫文にちなんでつけられた名前だと思うが、板きれ一枚の小屋だ。

⑪釈迦内鉱跡釈迦内鉱山跡。この横も中国人たちが逃げたであろう。水上勉戯曲「釈迦内柩唄」は花岡事件を描いている。

⑫獅子ヶ森頂上
獅子ヶ森頂上は「元は岩山だった」というのを偲ばせる岩だけの狭いところだった。風雨が強く、崖下に落ちそうな場所だった。向こうは大館市街。

⑭共楽館町中には娯楽(演芸、映画など)を楽しむための「共楽館」があった。その前の広場に、蜂起に失敗した中国人が三日間さらされ、中では拷問が行われた。ここでおよそ100人が亡くなり、最終的に986人中の418人が亡くなった。現在は体育館がある。

⑮獅子ヶ森JR大館駅から見ると獅子ヶ森は目と鼻の先だ。花岡というのはなぜか山奥だと、わたしは考えていたのだが、行ってみると秋田県第二の都市・大館のすぐ北側だった(現在では大館市に組み込まれている)。

⑯信正寺裏「中国人殉難者慰霊塔」信正寺裏の「中国人殉難者慰霊塔」と後方「供養塔」。

⑰中国殉難士慰霊之碑花岡川上流の「十瀬野墓地(公園)」入口に建つ「中国殉難烈士慰霊之碑」。

⑱中国殉難士慰霊之碑裏側その裏側には犠牲者の名が刻まれている。

⑲日中不再戦友好碑滝ノ沢沈殿池南の高台に建つ「日中不再戦友好碑」。

⑳花岡川花岡川。「花岡事件」は、(蜂起の)首謀者13人が秋田地裁で取り調べを受けているときに終戦を迎えた。多くの中国人は故国に帰ったが、戦犯裁判の証人として残り、そのまま日本に住み着いた人もいる。裁判はC級裁判(人道にたいする罪)として横浜地裁で行われ、中山寮所長が終身刑、補導員3人が絞首刑、警察関係2人が重労働20年の判決が1948年3月に言い渡された。だが、1954年から1956年にかけて全員が出所している。所長は、その後、鹿島建設の重役になった。

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相模ダム<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-2>  

横浜を含め神奈川の水源は、相模川、道志川、中津川など相模川水系が主となっている。その相模川を堰き止めるため、1940年に着工し戦後の1947年に「相模ダム」が完成した。軍需品生産のために京浜工業地帯の工業用水と大量の電源確保が主たる目的だった。その建設のために、延べ360万人が働きその1/3(「6割」という記述もあり)は朝鮮人(常時350人を確保)であったという、また捕虜として(前回述べた「ウサギ狩り」により)強制連行された中国人287人もいた。完成までに83人の勤労学徒も含めた日本人、朝鮮人、中国人が犠牲になったが、当初建てられた「慰霊塔」には中国人28人の名は刻まれなかった。1993年ようやく「湖銘碑」が相模湖の畔に建立され、83名の名と日本語、ハングル、中国語での碑文が刻まれた。湖底には「勝瀬部落」が沈んでいる。
東京オリンピックのカヌー競技の会場となり、現在も戸田漕艇場とならぶ漕艇場になっている。


①「脈動」清武英司1994年作駅前の彫刻、「脈動」清武英司1994年作。

②励磁機・ブラケット「励磁機、ブラケット」。当初使われたものが1986年更新に伴い、湖畔に「モニュメント」として展示されている。

③水車ランナー「水車ランナー」(発電機を回す羽根車)。

④相模湖相模湖。左手奥に相模ダムがある。

⑤相模ダム相模ダム。建設時、ここは熊谷組の現場だった。飯場は現・「相模湖交流センター」のところにあった。

⑦ダム下流サイドダム下流部。

6084919161_87a152ce66_z[1]湖畔では、モンキアゲハが執拗になにかを吸っていた。

⑧湖銘碑1993建立中国人犠牲者の名前も刻まれた「湖銘碑」(手前)が、ようやく1993年に建立された。

⑨昭和10年代相模湖町理髪店昭和10年代の理髪店。

佐倉兵営跡<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-3>  

佐倉の中心は佐倉城であるが、1873年(明治6年)ごろから城の地に陸軍の兵営が造られた。兵営は、城の建物を壊し、大きく盛土していわば別個の建築物のように建造された。明治初期の変動の時代に造られたということは、佐倉の軍隊は「神風連の乱」や「西南戦争」などのいまだ混乱期の事件・戦争から出動している。
さらに「日清戦争」「日露戦争」は言うまでもない。日露戦争後の陸軍再編成により、佐倉には第57連隊が配備された。この連隊は満州事変にともない、チチハルからさらにソ満国境の孫呉に移駐し、かのノモンハン事件(1939年)に参戦。その後1944年に上海~ルソンを経て、レイテ島に到着、「リモン峠」の攻防戦に参加、この戦いで兵力の大半を失い1945年にセブ島に脱出し抗戦したが、8月28日に降伏した。第57連隊は、戦闘参加2,541名のうち生存者は131名であった。

※上記は主に千葉県歴史教育者協議会編「千葉県の戦争遺跡をあるく」(国書刊行会)より引用。大岡昇平「レイテ戦記」参考。

①佐倉兵営跡碑佐倉兵営跡碑(昭和41年本部跡地に建立後、「国立歴史民俗博物館」建設のため現在地に移る)。

②皇太子殿下御野立 所
「皇太子殿下御野立所」。1911年に皇太子(大正天皇)が佐倉の兵営や練兵場を視察したのを記念して大正期に建てられた。

③夫婦モッコク城の本丸部分は兵営として使用されていなかったが、ここの「夫婦モッコク」には兵士による「いたずら描き」が残っている。「砲隊」「昭和十八年十月」「佐野」などが読める。

④厠跡1兵営ならばどこにでもあったはずだが、便所が遺跡として残っているのは珍しい。

⑤厠跡2同、厠跡。厳しい軍隊生活の中で唯一「個」に戻ることができるのが、この空間だったのではないだろうか。兵士たちは、ここで何を思い、何を願ったのだろう?

⑥佐倉陸軍病院跡「佐倉陸軍病院跡」に建つ石碑。

⑦車道碑 (1)
「車道」碑。1920年(大正9年)建立、佐倉駅からの物資搬入を便利にした車道完成を記念して。

⑧弾薬庫跡弾薬庫跡地に残るコンクリート、周りは事故時の安全を考慮して土手で囲まれている。

⑨12階段「12階段」って何だろう?これは兵士がここに駆け上り飛び降りる訓練用の施設だ。現地に行くまでは、こちらの階段を上り、向こうに飛び降りるものと思っていたが、逆に向こうの梯子を上ってこちらに飛び降りる、のであった。

⑩佐倉藩戦死者慰霊碑佐倉藩(時代からの)戦没者慰霊碑。幕末の戊辰戦争から、日清、日露戦争まで、「麻賀多(まかた)神社」境内。

かながわ平和祈念館<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-4>  

①戦没者地図
「かながわ平和祈念館」(「神奈川県戦没者慰霊堂附属会館」の愛称)。京急・市営地下鉄上大岡駅から歩くと、戦没者慰霊堂の手前にある。日中戦争からさらに泥沼の東南アジア・太平洋へと戦争を拡大し、戦没者は被災死者を含め310万人と言われる。これは、戦没者数を表す地図だ。その陰に2,000万人ともそれ以上とも言われるアジア・太平洋の人々の犠牲があることも忘れないでほしい。
小さな祈念館であるが、そこに展示されているのは遺品そのものであるので、前後の経緯についての説明は少ないが、物そのものと対面できる。


②硫黄島 鉄かぶと(破片)硫黄島 鉄かぶと(破片)。

③軍事郵便 南方より
軍事郵便 南方より。

④背嚢
背嚢。

⑤田中絹代「田中絹代」アルバム。

⑥お守りお守り。

⑦筆入れ筆入れ。

⑧上海で戦死した陸軍伍長の小銭入れ上海で戦死した陸軍伍長の小銭入れ。

⑨椰子製の椀椰子の実製の椀。

⑩バイカル湖の「霊石」バイカル湖の「霊石」。

⑪パラオの遺品 カメラ
パラオの遺品。カメラは一般の兵士が持っているものではない、わたしが知っているのは憲兵のものだったが、あるいは報道班員のものかも知れない?

⑫ガダルカナル 水筒と眼鏡ガダルカナル 水筒と眼鏡。

⑬1944年北京陸軍病院で亡くなった伍長の眼鏡 1944年北京陸軍病院で亡くなった伍長の眼鏡。

相州美術・戦争資料館<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-5>  

ここは骨董店を営む店主の遊佐氏が、個人で「二度と戦争を繰り返さない」ために広く戦争関係のものを収集し、展示している。二階が資料館になっていて、限られたスペースに所狭しと展示されているが、けっこう寄贈される方が多いので寄贈品を優先しているとのこと。まだ、展示品の倍もが、段ボールに入って展示棚の下に置いてある、機会があったら見せていただきたいものだ。場所は、厚木市の郊外(北)なので、ぜひ訪れてほしい。

①相州美術・戦争資料館去年はこの犬たちに噛まれました、要注意!

②焼夷弾重り焼夷弾をまとめて投下するための「重り」、鉄製。

③星秘膏「星秘膏」と言われても分からないが?陸軍内に性病が蔓延して、携行することになった軟膏。

④小学校制服小学校(国民学校)の制服。

⑤陸軍階級章
「陸軍階級章」。星ひとつ、線一本が人間と人間を峻別した。

⑥満鉄記念模型(装甲自動車)満鉄(南満州鉄道株式会社)が作った記念の置物。「満州事変(1931年柳条湖で関東軍が満鉄の線路を爆破し=自作自演、それを中国軍の行為として出兵:15年戦争始まる)」で初陣を飾った装甲自動車をかたどったブロンズ像、原型は彫刻家「朝倉文夫」作。翌1932年に「満州国独立」を宣言した。この一品は、満鉄からM陸軍少将に贈られたもの。※満鉄とは単なる鉄道会社ではない、「日本の帝国主義支配の枢軸」(家永三郎『太平洋戦争』)であった。

⑦一文字山「支那事変発端之地」(1937年当時の日本による呼称。「支那」は蔑視の呼称)、盧溝橋の近くの一文字山で夜間演習中の日本軍に銃弾が撃たれ、これをきっかけに日中戦争が起こり、さらに戦線が全中国に拡大し、太平洋戦争に突き進んでいく。

⑧軍歌集
「日本新軍歌集」。

⑨機関銃弾機関銃弾。

⑩日の丸寄せ書き「秋山君」出征時に同級生が贈った「日の丸寄せ書き」。

⑪国防婦人会タスキ「大日本国防婦人会」タスキ。銃後の女性たちもまた、戦争遂行に向けて組織されていった。

⑫軍票「軍票」各種。(日本軍占領地で使用された無価値の)軍票という名の、徴発と強制労働であった。

⑬防寒着
シベリア抑留中に使用した「防寒着」。マイナス40℃の地でのソ連による強制労働により、70万人余のシベリア等抑留者(捕虜)の5万人余が亡くなった(人数の正確な把握はできていない)。

⑭手製スプーン 1944年に慶応大学から学徒出陣した人が、戦後ソ連に抑留中に飯盒の中ブタで作ったスプーン。

学徒出陣・日吉地下壕<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-6>  

前回「②-6」の最後が、慶応大学から学徒出陣した陸軍大尉(敗戦時)の青年が作ったスプーンを紹介したので、当時の慶応大学がどのような状態であったかを載せてみた。これらは「横浜北部週報<戦争③慶応日吉キャンパス>」にすでに掲載してあるので、smallサイズで掲載しましたがコメントは「横浜北部週報」を見てください。※上記クリック
慶大日吉キャンパス陸上競技場では、1943年に同校の出陣学徒500名の壮行会が行われた。アジア太平洋戦争で、慶応義塾から約3,000名の学生が出陣し2,000名が戦死した。
他の写真は、「学徒出陣」と「勤労動員」で校内がスカスカになったことをよいことに、1944年から「連合艦隊」なき「連合艦隊司令部」が日吉キャンパスに移ってきた。突貫工事で2.6キロのトンネルを掘って、内装を仕上げて空襲時の備えに使った。沈みゆく戦艦大和との交信、沖縄戦などもここから船橋経由で(発信地を紛らわすため)交信された。内装は、蛍光灯を使用し、トイレは水洗式であった。
慶応義塾と「日吉台地下壕保存の会」とで保存し、見学会もおこなっている。


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竣工記念の酒杯には、「大東亜共栄圏」の地図が描かれている。

千葉空襲<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-7>  

戦争末期には、原爆を投下された広島、長崎、その候補地であった新潟(機雷投下)、京都、小倉などを除くほとんどの主要都市が空襲・もしくは艦砲射撃に遭ったが、「軍都千葉」市も例外ではなかった。1945年、5/8には日立航空機(海軍、埋め立て地で現在はJFE)が艦載機に攻撃され、6/10にはB29の爆弾・焼夷弾により千葉機関区、師範学校女子部、千葉高女などが焼き尽くされた(各学校は日立航空機の工場と化していたのだが)。続く7/7には焼夷弾13,000発、爆弾159発により、市の中心部はほとんど焼き尽くされた。
わたしの母の家族は、当時はまだ千葉市街の外れ、畑と田んぼに囲まれた都川右岸の「旭町(あさひちょう)」に住んでいたが、祖母が爆弾の破片に当たり、対岸の丘の上の千葉大附属病院に担ぎ込まれたが亡くなった。戦後も、一族が共同生活していて、5歳の長兄が「疫痢」で亡くなった4ヶ月後にわたしがここで生まれた。今回初めて、わが「生まれ故郷」に帰ったのだが、一歳未満で東京に越したので記憶はもちろんない。


①千葉機関区碑 6/10の空襲により、千葉の交通の要衝である機関区が襲われ、機関区職員のほかに「動員学徒」だった佐倉中学生徒一名と千種国民学校生徒一名を含む23名が亡くなった。碑は1968年に建立された。

②富士校の碑。千葉市富士見国民学校の跡地(7/7焼失)。

⑤お茶の水「お茶の水」跡。千葉常胤が頼朝を迎え、この水でお茶を点てたという。近くで立ち話をしていた女性二人に聞くと、左岸は空襲の被害はほとんどなかったという。

⑥千葉大塀現・千葉大医学部の塀がずっと続いているが、なるほどレンガ塀をセメントで補強・補修したものだった。

⑦千葉大傾斜地 現・千葉大医学部と附属病院があるところは、左岸すぐに丘陵になっている。その傾斜地。下の都川沿い道路が、東金街道の旧道だろう。

⑧「千葉医科大学附属医院」門 「千葉医科大学附属病院」(現・千葉大医学部、附属病院)門。この形は、軍隊の施設入り口と同じだ、軍事施設は残っていないが門だけが残っているところがけっこうある。

⑨「わらべばし」車もリヤカーも通れない狭い橋「わらべばし」。川もいまは汚いが、それでもコサギが餌を探していた。

⑪給水塔 対岸にそびえる「給水塔」。この辺に住む人には印象的な建造物だ。

⑫都町浄水場 都町の浄水場。

⑬旭町の路地 旭町は平凡な住宅地になっていたが、自治会館から出てきたご婦人に教わった道は、唯一むかしの面影を残す、細くてくねくねした路地だった。

⑭本町小学校、バックネット 6/10の空襲で焼失した「本町小学校」。1873年(明治6年)創立の古い学校で、「体育館の屋上に「創立××年」とか書いてありますよ」とサッカーのコーチ(同校卒業生)が教えてくれた。

⑮本町小学校、遊具同「本町小学校」のコンクリート製の「山」。

⑯栄町、無縁塚?栄町のソープ地帯の片隅に取り残された無縁仏の慰霊塔(と思われる)。栄町も更地ばかりが目立つ。

⑰千葉師範学校女子部跡 「千葉県女子師範学校 同附属小学校・幼稚園跡」、1968年、20世紀のアーティスト刀根山光人(とねやまこうじん)作。空襲で焼失した学校の跡を訪ねて歩いてみると、ほとんどが千葉駅のすぐ近くに集中していたことが分かる。千葉の市街というのは小さくて、あとは軍事施設と関連工場がほとんどであったようだ。空襲により亡くなった方は1,600人(「死傷者」と書かれているが)といわれるが、正確には把握されていない。被災家屋8,900戸、被災者41,000人。

軍都千葉<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-8>  

「軍都千葉」といわれたように陸軍の軍事施設が、主に千葉駅から西方の稲毛にかけて集中していた。千葉市作成のWEB『千葉空襲写真誌』の地図によると、千葉聯隊区司令部(椿森)、陸軍病院、鉄道第一聯隊、鉄道第一聯隊材料廠(千葉経済大学)、同聯隊作業場(千葉公園)、陸軍兵器補給廠、陸軍歩兵学校、気球聯隊、陸軍戦車学校、陸軍防空学校、下志津陸軍飛行学校と、ほとんど隣り合わせに広大な地域に存在した。さらにこの<②-3>に掲載した佐倉、<①-2> <同写真>で取り上げた柏、習志野、船橋、松戸、市川、房総半島方面へと(とくに房総半島方面は「本土決戦」にむけた軍事施設が集中している)。そのごく一部を紹介するにとどまるが。

①千葉公園内に残る「演習用橋脚」、これは荒木山の下に残る物で、次の写真は荒木山の上に残る橋脚。往時は、これ以外にもいくつも演習用橋脚があって、この上に鉄道を敷設した(り解体したり)。窪地の千葉公園を「川」や「谷」に見立てての大がかりな演習が繰り返されていたようだ。

②荒木山上部の橋脚。

③ウィンチの一部礎石。

④演習用のトンネルも千葉公園脇に残る。上部に同聯隊のシンボル・マークが見える。

⑤鉄道大隊記念碑。椿森公園横。

⑥現・椿森公園内に残る「同聯隊将校集会所庭の築山」跡。公園に溶け込んで見逃してしまう。

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陸軍病院門(現・国立病院機構千葉医療センター、椿森)。

⑦同聯隊材料廠跡。現在は、県指定有形文化財。

⑧作草部神社に残る「忠魂碑」、大正前期に建立。忠魂碑は日露戦争以降在郷軍人会などによって盛んにつくられるようになった。「慰霊碑」とは意味合いが異なり「村の靖国であった」(大江志乃夫『靖国神社』)。


⑨作草部にある旧「気球聯隊第二格納庫」、第一格納庫はすぐ西隣にあってもっと大きなものだったという。

⑪格納庫の北隣の「陸軍歩兵学校」跡へ歩いて行くと「学校境界の土手」が残っていた。

⑫旧「陸軍歩兵学校」跡地の保育園。
千葉に限らず、軍用地は、米軍基地、自衛隊基地として現役で使用されているところも少なくないが、学校や公的施設、ベッドタウン、公務員住宅などに転用されている。病院などは医療関係施設になっている所が多い。


陸軍習志野学校<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-9>  

京成大久保駅から北へ商店街が続いている。いまどき「シャッター通り」にならず、それなりの活気があるのは、その先に日大生産工学部と東邦大薬学部があり、学生街になっているからだろう。その商店街途中には、「坂の上の雲」で有名な「第一騎兵旅団長」秋山好古大将の写真像と旅団司令部門柱と写真が記念像としてつくられている。
現在の東邦大が旧騎兵第13連隊、日大が同旧第14連隊の跡である。日露戦争でコサックと勇敢に戦ったことで有名である。第一次世界大戦以降は装甲車・戦車の時代となり、最終的に戦車部隊となる。
その東の東邦大附属中高等のブロックが、旧騎兵第二旅団第15連隊、公務員住宅等になっているところが旧第16連隊であった。この両ブロック部が1933年から化学戦を学ぶ陸軍習志野学校となった。当初は、毒ガス戦の防御を中心としていたが、後には毒ガス戦攻撃面の学習・演習が主になったという。わたしの父はここで学んでいて、当時小学生だった叔母が遊びに行くと馬で迎えにきたという。
いまだに、中国には旧日本軍の毒ガス弾が数百万発も残っている。



日大側に残る「第十四聯隊之跡」碑。ぐるっと回らなければならないが、背中合わせに東邦大側にも石碑が残る。

南側の現・八幡公園と郵便局のところに「旅団司令部」が置かれ、司令部門柱は公園入口として残り、犠牲軍馬の慰霊碑等が公園内に残る。

第15連隊兵舎跡(一部。現在も個人宅として使われている)。

「車廠」のコンクリート床とレールが残っている。と言っても実は「車廠」というものがよく分からない、散布法の一つは、装甲車により散布車を引きながら行うのでこれらの「車庫」&メンテナンス工場なのだろうか?

習志野学校跡地から、かの731部隊で生体実験を行った「八面房」と同じ形の構造物が発掘されている。現在は公務員住宅になって残っていない。その南側に、現在は「立ち入り禁止」となっている一角に様々な構造物の基礎部が残っている。

同「立ち入り禁止」地域一角。

弾薬庫の跡が、そのまま子供たちの遊び場になっている。

東門門柱。すぐ右手に「衛兵所」も残っている。

6325049306_b4f1ee2827_z[1]同東門に(裏門)続いて第16連隊を囲む土手が残っている。

習志野原演習場に造られた「支那囲壁砲台」(「満州小屋」)跡。屋根の形は日本風に造り替えられているが、もともとは中国風の屋根だった。現在、米軍などがゲリラ戦訓練用に「都市の一部」を再現して使用しているのと同じだ。

6479500053_5d47193dc1_z[1]「支那囲壁砲台」の塀と門。要所に銃眼のうがたれた頑丈な塀と櫓部とで屋敷や小村を囲い、外敵から防備していたのだろう。

戸山ヶ原演習場<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-10>  

小滝橋から箱根山周辺にいたる広大な地域が「陸軍戸山ヶ原演習場」だった。近代国家の国軍を育成するための「陸軍戸山学校」を1874年(明治7年)に箱根山に設置、これに伴い周辺の土地を演習場として買い上げていった。そのご、徐々に演習場とその周辺に陸軍関係の諸施設が造られていった。
西からみてみると「陸軍技術本部」「陸軍科学研究所」(現・社会保険中央総合病院付近)、「射撃場」(現・早稲田理工学部周辺)、「幼年学校」、「近衛騎兵連隊」(現・学習院女子部、当時の兵舎も残っている、現在も校舎として使用中)、「陸軍戸山学校」、「陸軍砲工学校」、「陸軍軍医学校」、「陸軍第一病院」(現・国立国際医療研究センター病院)、「陸軍経理学校」(河田町)といったところか(年次により移転、組織替えが行われている)。さらに東側には「陸軍士官学校」、逆に西側には「中野学校」があったのであるから、軍都・帝都の中心といえるだろう。


①-1第六陸軍技術研究所太平洋戦争開戦後の1942年に「陸軍技術本部」は改編され、百人町は「第六陸軍技術研究所」となり化学兵器、とくに毒ガスの研究・開発の中心となる(製造は大久野島、寒川など)(第九研=登戸研究所については①-1参照 同写真)。百人町では1955年に、イペリット、ルイサイト12缶がでてきた。

①-3演習場敷地内、現在は西戸山公園野球場。

③戸山ヶ原射撃場住宅と住宅の間に、射撃場を囲む土塁が厳重な金網に囲まれて残っている。民家の方の許しを得て裏庭から撮影させてもらった。土塁一部は、公園入口をはさんで西側にも残るが、こちらは樹木も生え公園の一部として溶け込んでいる。この土塁の北側に7列の射撃場がならんでいた、早稲田理工学部の長方形がその名残である。

④戸山学校将校集会所戸山学校将校集会所は堅牢かつぜいたくな建物だったことが分かる。現在は、戸山教会と附属幼稚園として使用されている。

⑤戸山学校軍楽隊野外演奏場箱根山に残る、戸山学校軍楽隊の野外演奏場跡。

⑥陸軍軍医学校1手書きで「医療学校」と読めるのだが。「陸軍軍医学校」の痕跡と思われる門柱。

⑦陸軍軍医学校跡
近くに、「医療××」と書かれた御影石の車止め様の石がある。これも「陸軍軍医学校」の痕跡と思われる。1989年夏に、この軍医学校跡地から大量の人骨(100体以上)が掘り出された。しかも、ドリルによる穿孔や人為的加工のあとが残るモンゴロイド系のものであることから、かの731部隊と関連ある人骨とも考えられた(石井四郎が1930年代に軍医学校地下室に「防疫研究室」を設立し、細菌の研究・教育を行っていた場所でもあった)。厚生省の調査では、731との関連は認められなかったが…。

⑧地下道跡「陸軍第一病院」と「軍医学校」をつなぐ地下道の痕跡。

⑨人骨発掘元軍医学校看護婦の証言(医学標本を埋めた)を元に、2011年2月から防疫研究室跡地の発掘が始まった。

⑩人骨埋め戻ししかし、研究室で使用された陶器などが若干出てきただけで、人骨はみつからず、6月30日に発掘作業は打ち切られ、埋め戻された。

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