写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

名残雪 小山田2<田園の憂鬱②-6>  

小山田緑地には湧き水の「アサザ池」という小さな池があって、ちょうどコサギとアオサギが餌を探しているところだった。ここから流れる小川の傍らに住んでいる方が「ホタルがきれいで」「カワセミも飛んでくるよ」という話でした。池のある谷戸からすこし登ると尾根道「多摩よこやまの道」に出ます。ここは万葉集にも詠われたところで、古代から中世にかけても重要な道だったそうですが、いまは北側に「多摩ニュータウン」がひらけています。
  赤駒を山野に放(はが)し 捕りかにて 多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ 
この尾根道も、南側が鶴見川、北側が多摩川の分水嶺にあたり、ここから東に5キロも行くと「②-1 黒川分校跡」の尾根に続いています(地形的にはそうなのですが、道が続いているか、近々歩いてみましょう)。電車区は小田急唐木田車庫です、最後の写真は、残念ながら市街地近くの緑地にしばしば捨てられている粗大ゴミ~いやはや、汗水たらしてここまで運ぶんだなぁ!?


①

②

③

④

⑤

⑥

⑦

⑧

スポンサーサイト

名残雪 小山田<田園の憂鬱②-5>  

関東に雪が降ったのは先週の日曜だったか、日本海側では大雪になっているが、神奈川あたりでは大したことはない。気温は上がらないが、水分を補給してくれて春の訪れを確実にしてくれる。
いつも自転車で走っているコースのすぐ上に「小山田緑地」というのがあるので、期待して行ってみた。鶴見川の最上流部にあたり、「源流の池」のさらに上部にあたるので、ここも源流の一部をなすと考えてもいいだろう。しかし現実は、元々は雑木林であったのだろうが、ゴルフ場に浸食されて、さらに一部はリサイクル品工場と「残土受入」業者に分断された悲しい「緑地」だった。「緑地」は大きく4つに離れて存在し、きれいに?整備された「公園」だった。それは現在の鶴見川に相応しい変貌ともいえるだろう。(結果的に「緑地」周辺部の写真になりました)


①★r

②★r

③★r

④★r

⑤★r

⑥★r

⑦★r

ロゼットrosette3<田園の憂鬱②-4>  

きょうあすと、南房総をぐるっと自転車で一回りする予定だったのです。天気さえ良ければ、房総、三浦、伊豆半島は今ごろでもけっこう暖かです、越冬中の蝶々も飛び回っています。とくに房総は花の季節ですから、洲崎から白浜にかけては沿道にポピーが、一歩脇道に入れば出荷用の春の花が栽培されているところです。太海・鴨川から長狭街道を登っていけば、この辺はスイセンが真っ盛りのはずです。以前、3月に走ったときは花粉症に泣かされました、地元のレーサーたちもマスクをして練習していました、房総はスギの産地でもあったのですね。
今回はけっきょく久々の雪と雨になりましたが、キャンセルはわたしの持病:腰痛が発症したためでした。低気圧の接近が関係しているのかも知れませんが…スイセンが咲いているうちに走りたいですね、スイセン群落の美しさとともに油性の香りが素晴らしい。
というわけで、腰痛のため鶴見川源流方面にはいけず、寺家ふるさと村周辺で撮影して「ロゼット」はとりあえず終わりとします。雨が降ると、腰にもカメラにも悪いのですが植物は生き生きとしてきます。


①

②

③

④

⑥
2011年1月池辺。

⑤

ロゼットrosette2<田園の憂鬱②-3>  

これも「茅ヶ崎城址」(加山雄三の茅ヶ崎ではなくて、横浜のセンター南駅近くの地名)の続きです。

⑩

⑪

⑫

⑬

⑭

⑮

⑯

ロゼットrosette1<田園の憂鬱②-2>  

冬の空き地を見れば、こんな形でいわゆる「雑草」(多年草)が地を這うようにべったりと生えていることに気づく。とくに駐車場とか空き地といった荒れた土地の南面に多く、逆に手入れの行き届いた所は抜かれてしまうのだろうか少ない。これは、かれらが省エネで(這う方が立つよりは楽なのであるが)、日差しも受けやすく、かつわたしが思うには寒風からも身を守りやすいということではないか。日本語では何と言うのか知らないが、英語で「ロゼット」と言われている“rosette”と“rose”が入っているようにバラの花の形をそこに見いだした人がいたのだろう。
今回は近場の「茅ヶ崎城址」の周りを歩いてみた。ここいらは今では住宅街なので「大変危険」だ…ロゼットがあるようなところは犬の大小をしたくなるような場所なのだ。注意深く、よく観察してから撮影しなければならない。つぎは、そんな心配のない(と思うが)鶴見川源流方面に行ってみよう。


①

③

④

⑤

⑥

⑦

⑧

⑨

黒川分校跡<田園の憂鬱②-1>  

黒川というのは「津久井道」(鶴川街道)の劇団民芸のあるところ、小田急多摩線が入るまでは田園というよりは田舎だった。尾根を切通した上には、明治6年創立の小学校(江戸期は「塾」)のちのちの「柿生小学校黒川分校」跡がある。現在は、川崎市の青少年野外活動センターとして使われているが、どことなく分校の雰囲気が漂うところだ。ここから柿生に抜ける道は、狭いが昔は炭焼き小屋もあって、自転車でポタリングにうってつけの道だった。この2~3年か、一気に住宅地になってしまったが。
分校跡のある尾根が、鶴見川と多摩川との分水嶺になっている。『横浜北部週報』は改メ⇒『田園の憂鬱』第2部として、「週報」ペースではなく「のんびりポタリング」ペースで、鶴見川流域を再発見・紹介していきます。

6672810817_6a7ef6479c_z[1]
下麻生。造園業者の庭先に、幹なのか根なのか判然としない大きな木が転がっていた。

6672804817_af1bea94cd_m[1] 672806449_d66e5e72d5_m[1]
                                                    6672817083_fea0f8d0b4_m[1]
黒川まで行く前にいろんな所に引っかかります。ふだん入らない横道で紅花染めをやっていました、「草木工房」というところでした。白鳥神社。分校跡(現・黒川青少年野外活動センター)ではおじさんたちが野外活動中。

6666250723_b13a206747_m[1] 6666251983_99c0b7563e_m[1]

6666233365_67c6e3700f_z[1]
分校跡にはマキがきちんと積まれていた。

6666239537_55a198408d_z[1]
分校のせまい校庭と、雑木林の面影を残す「小山」。

6666656425_2ef0d3a0d2_z[1]
分校跡から尾根道が「散策路」になっている。切通し反対側(黒川駅側)もちょっとしたハイキング道になっていて、この日も年配者4人が「ああ面白かった、変わった景色!」と歩いてきた。

6666260747_9d07359d7d_z[1]
分校跡側の散策路、南側にはソフトウェア開発の工業団地が隣接している。

6676049503_0a2222a1c4_z[1]
炭焼き窯があったあたりか?新築物件。

6672823523_2ae46c077d_z[1]
京王線相模原線も入ってきた、「若葉台駅」。

6672828305_1f2ea8f8a8_z[1]
小田急多摩線のトンネル上。笹を刈ったあとなので、歩くと危険だ。この写っている一帯が、戦時中は「照空隊陣地(巨大なサーチライトで爆撃機などを照らす部隊)」があったところ。

花岡川から<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-1>  

※本日(1/4)、編集終了にともない②-1から②-17へと、昇順に改めました。
花岡事件。1945年6月30日(7月1日説もある。この食い違いは、単に発生日時の問題にとどまらず、1990年に始まった裁判と2000年に和解として終えたその内容をもめぐって「対立」しているが、ここではこれ以上触れない)夜、花岡鉱山で鹿島組の支配下のもとに強制労働させられていた中国人約800人が蜂起した。
1941年に日中戦争からさらに太平洋戦争へと戦線は拡大され、物資も労働力も極端に不足していった。朝鮮人の強制連行・強制労働でも間に合わず、1942年東条内閣は財界の要請をも受けつつ「華人労務者内地移入に関スル件」を閣議決定し、翌年「試験移入」、1944年に次官会議決定に基づき本格的な強制連行・強制労働を開始した(事実上はその以前からやっていた)。計画的に一定の地域を包囲して、徐々に包囲を狭めながら労働力となる男性を捕まえ、4万人近くを「内地」の鉱山・工場135事業所に配分して強制労働させていた。そのなかには、戦闘で捕虜にした国民党軍や共産党軍の軍人・兵士も含まれる。
花岡(現・秋田県大館市)では、花岡川付け替えの工事のために1,000人近くの「労工」が鹿島組で働かされていたが、衣服も与えず、食事もピンハネして小さく何が入っているか分からない饅頭ひとつで重労働が課された。そして、何かに付け補導員の棍棒がうなり、寒さと飢えと暴力によって連日死者が相次いだ。このままでは死を待つのみという状況下、捕虜軍人を中心にして蜂起し、朝鮮人労工、アメリカ人捕虜をも解放し武装して、中国に帰る計画だったが、失敗し、約500人は大館駅東の「獅子ヶ森」にこもるも全員が捕まり「共楽館」内・前広場での拷問でさらに犠牲が拡大した。
通称「ウサギ狩り」と称した「労工狩り」は、同時に包囲された村の物資の徴発=強奪、陵虐も行われ、「三光作戦」(殺光、焼光、略光…中国語。日本軍は「燼滅作戦」と言った)の延長上にあった。
以下は、2011年の「花岡事件」現地です。

※野添憲治、清水弟、石飛仁各氏の著書、さらに三光事件では平岡正明「日本人は中国で何をしたか」等を参考にしました。

①花岡川1中国人の血と汗と涙が流れる人工河川「花岡川」。撮影場所右手に信正寺、左手に昨年地元の人々を中心にしたNPOがつくった「花岡平和記念館」がある。

②花岡川いまは両岸に桜が植えられている。

③-1花岡川、大森川合流付近大森川との合流部近く。「雨だからコイぐらいだね」と。

③信正寺イチョウ曹洞宗 信正寺の樹齢650年のイチョウはすべてを目撃していた。

④岸信介 1942年7月、商工相岸信介が花岡堂屋敷坑を訪れ生産(主に銅)を鼓舞した(「花岡平和記念館」展示写真より)。

⑤信正寺「七ッ館弔魂碑」信正寺墓地内にある「七ッ館弔魂碑」、本来の場所は少し南の現・公園内。1944年5月、七ツ館坑の乱掘により上を流れる旧花岡川の底が抜けた落盤事故が発生し、朝鮮人11人、日本人11人が生き埋めとなった。地下からの通信音もあったが、折からの増産のために救出をせずに埋め戻してしまった。そして、旧花岡川の流れを変えて新花岡川を造る掘削工事を同和鉱業から請け負ったのが鹿島組であり、「花岡事件」の出発点も人間を人間扱いしない「戦争優先」から始まっている。

⑥黒鉱多くの(約500人)中国人がこもった「獅子ヶ森(標高225m)」下の「郷土博物館」展示の「黒鉱」。

⑦-1信正寺友子制度墓石
「花岡平和記念館」を訪れた人たちが、信正寺の友子(ともこ。鉱山内の親分子分の関係、肉親以上の信頼関係だったという。産業報国会に取って代わられたという)の墓(亡くなった親分の墓を子分たちで建てた)を見学していた。

⑦花岡鉱山旧繁華街黒鉱から銅、鉛、亜鉛などを採掘していた花岡鉱山も、1994年松峰(花岡南)坑の閉山。かつての賑わいの跡。

⑧小坂鉄道大館駅前跡小坂鉄道大館駅前跡。中国で捕まった中国人は、かつてのアフリカ~アメリカの奴隷船のように下関に運ばれ、ここから4日間弁当一個のみ水も与えられずすし詰めで大館まで運ばれ、小坂鉄道に乗り換え花岡に着いた。

⑨小坂鉄道大館駅と獅子ヶ森廃線となった小坂鉄道。ホームも駅舎もなく、線路のみが残る。

⑩沈殿池堤防滝ノ沢第二ダム、その向こうの沈殿池の底に中国人たちが収容された「中山寮」が眠っている。孫文にちなんでつけられた名前だと思うが、板きれ一枚の小屋だ。

⑪釈迦内鉱跡釈迦内鉱山跡。この横も中国人たちが逃げたであろう。水上勉戯曲「釈迦内柩唄」は花岡事件を描いている。

⑫獅子ヶ森頂上
獅子ヶ森頂上は「元は岩山だった」というのを偲ばせる岩だけの狭いところだった。風雨が強く、崖下に落ちそうな場所だった。向こうは大館市街。

⑭共楽館町中には娯楽(演芸、映画など)を楽しむための「共楽館」があった。その前の広場に、蜂起に失敗した中国人が三日間さらされ、中では拷問が行われた。ここでおよそ100人が亡くなり、最終的に986人中の418人が亡くなった。現在は体育館がある。

⑮獅子ヶ森JR大館駅から見ると獅子ヶ森は目と鼻の先だ。花岡というのはなぜか山奥だと、わたしは考えていたのだが、行ってみると秋田県第二の都市・大館のすぐ北側だった(現在では大館市に組み込まれている)。

⑯信正寺裏「中国人殉難者慰霊塔」信正寺裏の「中国人殉難者慰霊塔」と後方「供養塔」。

⑰中国殉難士慰霊之碑花岡川上流の「十瀬野墓地(公園)」入口に建つ「中国殉難烈士慰霊之碑」。

⑱中国殉難士慰霊之碑裏側その裏側には犠牲者の名が刻まれている。

⑲日中不再戦友好碑滝ノ沢沈殿池南の高台に建つ「日中不再戦友好碑」。

⑳花岡川花岡川。「花岡事件」は、(蜂起の)首謀者13人が秋田地裁で取り調べを受けているときに終戦を迎えた。多くの中国人は故国に帰ったが、戦犯裁判の証人として残り、そのまま日本に住み着いた人もいる。裁判はC級裁判(人道にたいする罪)として横浜地裁で行われ、中山寮所長が終身刑、補導員3人が絞首刑、警察関係2人が重労働20年の判決が1948年3月に言い渡された。だが、1954年から1956年にかけて全員が出所している。所長は、その後、鹿島建設の重役になった。

相模ダム<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-2>  

横浜を含め神奈川の水源は、相模川、道志川、中津川など相模川水系が主となっている。その相模川を堰き止めるため、1940年に着工し戦後の1947年に「相模ダム」が完成した。軍需品生産のために京浜工業地帯の工業用水と大量の電源確保が主たる目的だった。その建設のために、延べ360万人が働きその1/3(「6割」という記述もあり)は朝鮮人(常時350人を確保)であったという、また捕虜として(前回述べた「ウサギ狩り」により)強制連行された中国人287人もいた。完成までに83人の勤労学徒も含めた日本人、朝鮮人、中国人が犠牲になったが、当初建てられた「慰霊塔」には中国人28人の名は刻まれなかった。1993年ようやく「湖銘碑」が相模湖の畔に建立され、83名の名と日本語、ハングル、中国語での碑文が刻まれた。湖底には「勝瀬部落」が沈んでいる。
東京オリンピックのカヌー競技の会場となり、現在も戸田漕艇場とならぶ漕艇場になっている。


①「脈動」清武英司1994年作駅前の彫刻、「脈動」清武英司1994年作。

②励磁機・ブラケット「励磁機、ブラケット」。当初使われたものが1986年更新に伴い、湖畔に「モニュメント」として展示されている。

③水車ランナー「水車ランナー」(発電機を回す羽根車)。

④相模湖相模湖。左手奥に相模ダムがある。

⑤相模ダム相模ダム。建設時、ここは熊谷組の現場だった。飯場は現・「相模湖交流センター」のところにあった。

⑦ダム下流サイドダム下流部。

6084919161_87a152ce66_z[1]湖畔では、モンキアゲハが執拗になにかを吸っていた。

⑧湖銘碑1993建立中国人犠牲者の名前も刻まれた「湖銘碑」(手前)が、ようやく1993年に建立された。

⑨昭和10年代相模湖町理髪店昭和10年代の理髪店。

佐倉兵営跡<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-3>  

佐倉の中心は佐倉城であるが、1873年(明治6年)ごろから城の地に陸軍の兵営が造られた。兵営は、城の建物を壊し、大きく盛土していわば別個の建築物のように建造された。明治初期の変動の時代に造られたということは、佐倉の軍隊は「神風連の乱」や「西南戦争」などのいまだ混乱期の事件・戦争から出動している。
さらに「日清戦争」「日露戦争」は言うまでもない。日露戦争後の陸軍再編成により、佐倉には第57連隊が配備された。この連隊は満州事変にともない、チチハルからさらにソ満国境の孫呉に移駐し、かのノモンハン事件(1939年)に参戦。その後1944年に上海~ルソンを経て、レイテ島に到着、「リモン峠」の攻防戦に参加、この戦いで兵力の大半を失い1945年にセブ島に脱出し抗戦したが、8月28日に降伏した。第57連隊は、戦闘参加2,541名のうち生存者は131名であった。

※上記は主に千葉県歴史教育者協議会編「千葉県の戦争遺跡をあるく」(国書刊行会)より引用。大岡昇平「レイテ戦記」参考。

①佐倉兵営跡碑佐倉兵営跡碑(昭和41年本部跡地に建立後、「国立歴史民俗博物館」建設のため現在地に移る)。

②皇太子殿下御野立 所
「皇太子殿下御野立所」。1911年に皇太子(大正天皇)が佐倉の兵営や練兵場を視察したのを記念して大正期に建てられた。

③夫婦モッコク城の本丸部分は兵営として使用されていなかったが、ここの「夫婦モッコク」には兵士による「いたずら描き」が残っている。「砲隊」「昭和十八年十月」「佐野」などが読める。

④厠跡1兵営ならばどこにでもあったはずだが、便所が遺跡として残っているのは珍しい。

⑤厠跡2同、厠跡。厳しい軍隊生活の中で唯一「個」に戻ることができるのが、この空間だったのではないだろうか。兵士たちは、ここで何を思い、何を願ったのだろう?

⑥佐倉陸軍病院跡「佐倉陸軍病院跡」に建つ石碑。

⑦車道碑 (1)
「車道」碑。1920年(大正9年)建立、佐倉駅からの物資搬入を便利にした車道完成を記念して。

⑧弾薬庫跡弾薬庫跡地に残るコンクリート、周りは事故時の安全を考慮して土手で囲まれている。

⑨12階段「12階段」って何だろう?これは兵士がここに駆け上り飛び降りる訓練用の施設だ。現地に行くまでは、こちらの階段を上り、向こうに飛び降りるものと思っていたが、逆に向こうの梯子を上ってこちらに飛び降りる、のであった。

⑩佐倉藩戦死者慰霊碑佐倉藩(時代からの)戦没者慰霊碑。幕末の戊辰戦争から、日清、日露戦争まで、「麻賀多(まかた)神社」境内。

かながわ平和祈念館<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-4>  

①戦没者地図
「かながわ平和祈念館」(「神奈川県戦没者慰霊堂附属会館」の愛称)。京急・市営地下鉄上大岡駅から歩くと、戦没者慰霊堂の手前にある。日中戦争からさらに泥沼の東南アジア・太平洋へと戦争を拡大し、戦没者は被災死者を含め310万人と言われる。これは、戦没者数を表す地図だ。その陰に2,000万人ともそれ以上とも言われるアジア・太平洋の人々の犠牲があることも忘れないでほしい。
小さな祈念館であるが、そこに展示されているのは遺品そのものであるので、前後の経緯についての説明は少ないが、物そのものと対面できる。


②硫黄島 鉄かぶと(破片)硫黄島 鉄かぶと(破片)。

③軍事郵便 南方より
軍事郵便 南方より。

④背嚢
背嚢。

⑤田中絹代「田中絹代」アルバム。

⑥お守りお守り。

⑦筆入れ筆入れ。

⑧上海で戦死した陸軍伍長の小銭入れ上海で戦死した陸軍伍長の小銭入れ。

⑨椰子製の椀椰子の実製の椀。

⑩バイカル湖の「霊石」バイカル湖の「霊石」。

⑪パラオの遺品 カメラ
パラオの遺品。カメラは一般の兵士が持っているものではない、わたしが知っているのは憲兵のものだったが、あるいは報道班員のものかも知れない?

⑫ガダルカナル 水筒と眼鏡ガダルカナル 水筒と眼鏡。

⑬1944年北京陸軍病院で亡くなった伍長の眼鏡 1944年北京陸軍病院で亡くなった伍長の眼鏡。

プロフィール

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

QRコード

ご意見・ご感想などこちらから

カウンター