写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

野津田から小野路町<田園の憂鬱②-8>  

野津田(のづた)町の南側にはまだ何かありそうだが、北側は大きな公園になっていて、曇天にもかかわらず人がけっこう出ていた。そこから北の「野津田高校入口」信号を渡って「小野路町」に入ると、とたんに山林に入ってしまった。畑が入口近くに少しあるのみで、あとは武蔵野を偲ばせる雑木林の丘陵が続く。道は細く、枝分かれして、なによりも人と出会わない。この地域一帯は、「図師小野路歴史環境保全地域」に指定されている。この時期は雑木林も枯れているが、本格的な春ともなれば美しい緑におおわれるであろう。小山田の寺社がある方に降りようとしたが気が変わり、小野神社横に出た。ここが小野路そのもので、1893年(明治26年)までは神奈川県に属していた三多摩地区との重要な街道であり、宿場町であった。なるほど、多摩川を渡れば府中で、街道筋に「小島資料館」があり、民権運動の資料とともに新撰組の資料がかなりそろっているようである。天然理心流の達人であった小島鹿之助のもとに、近藤勇らが剣術と漢学を学びに通ったのだそうだ。
う~ん、自由民権運動、征韓論と韓国併合の関係も難しいのに新撰組か!?小野路の山と同様、迷路に迷い込んだようだ。


①野津田公園菜花
野津田公園の菜花、今年は春が遅い。

②野津田公園桑畑
同公園内の桑畑と雑木林。

③農村伝道神学校
同公園に隣接する「農村伝道神学校」。1927年カナダ人宣教師によって創立、同宣教師は洞爺丸事故で亡くなられたという。

④図師小野路歴史環境保全地域
雑木林のクヌギ。

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小野路城址へと続く切通しを過ぎて。

⑥小町井戸
「小町井戸」。この雑木林の丘は、西側にあった12世紀の小山田城の副城「小野路城」城址で、この湧水は小野路城の水源。水量はわずかでも、枯れることがないというが、またまた謎の人物「小野小町」とからんでくる。
    花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに

⑦小野神社
小野神社。平安時代の学者「小野篁(たかむら)」(小野道風のお祖父さん)を祀った、10世紀の神社。
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番外編の宣伝・広告<神宮前 THE END OF SPACE オープン!>  

神宮前に“THE END OF SPACE”オープン
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“THE END OF SPACE”が、神宮前に3/14(水)オープンします!小さく目立たないスペースですが、落ち着いた環境です、使い方はあなた次第です。連絡は amaaki@amaaki.co.jp 渋谷区神宮前3-7-11 天晶事務所まで。
銀座線「外苑前」渋谷寄り改札出て右出口へ、ベルコモン向かいに信号渡って右=千駄ヶ谷方面へ。最初の信号「原宿団地北」手前、そば屋「増田屋」角左、すぐ右曲がるとすぐ右手です。

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番外編 坂田・大房岬<アジア太平洋遺跡遺品③準備2>  

前回の続きになりますが、19日に自転車は車に積んで館山地域、洲崎を取材しました。17日にたまたま通りかかって、たまたまわたしの回路が少し動いて高校の同級生が白浜で「手作り品」の店「アンのともだち」をやっているのを思い出しました。もう半世紀近く会っていないものだから、表札を見て確認しました、「コモちゃん」でした!彼女に教わったのが、一昨年に完成した「安房グリーンライン」(白浜~三芳)の切通しに出現した「海底地滑り地層」です。
さいごに大房岬(たいぶさみさき)、ここも江戸時代からの要衝でした。ここに建つホテルからの館山湾の眺めは素晴らしい!(山側の部屋はだめです)、しかし、こんな国定公園のど真ん中に大きなホテルが建ってていいのだろうか?


①
赤山のすぐ裏手に残る「掩体壕」。

②
波佐間の特攻艇「震洋基地」跡。ベニヤ製のモーターボートに250キロ爆弾を積んでぶち当たるという。基地跡は(干潮時に現れるが)自然の磯に戻ろうとしている。

③
坂田(ばんだ)に残る、東京湾要塞のための「洲崎弾薬支庫(本庫は横須賀)」跡。

④
密集した篠竹の間を奥に進むと、養蜂用巣箱があった。その場所は兵舎の基礎部だ。

⑤
手前の家の一階部分は「弾薬庫」跡だ。

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「アンのともだち」とわたしの「QUARK号」。

⑥
白浜から行くと、「安房グリーンライン」のトンネルを抜けた切通し部が「海底地滑り地層」(白浜巨大乱堆積層)、南房総市の予算が不足しているために一部だけがコーティングされて公開されている。水深千数百メートルのところにあった地層が、200万年前の巨大地震で液状化・地滑りを起こした。それが地殻変動に伴う隆起で地上に出た。

⑦
大房岬の探照灯施設。

⑧
同探照灯のエレベーター式格納庫。

⑨
同岬の弾薬庫跡。

番外編・赤山壕へ<アジア太平洋遺跡遺品③準備1>  

11日~12日に南房総を自転車で走ってきた、まあ軽く足慣らし?スイセンが咲く頃がよいので1月に計画したのだが、わたしの腰痛と雨天で延期し、スイセンはすでに咲きすぎだった。浜金谷から洲崎、千倉に一泊して鴨川から長狭街道を越えて保田・浜金谷へ。
この地域は、「黒船来航」以来の東京湾の要衝であり海軍(陸軍も)の基地が多く、さらに敗色濃厚時に「本土決戦」を主張したグループ(というか主流ですらあった)により九十九里が連合軍の上陸地点と予測されたために、決戦に備えた基地・軍事施設が次々とつくられたところでもある。今回は、その一端を撮影したので「番外編」として載せました。


① (1)
浜金谷。天然ワカメでしょう。

②
浜金谷。左上が久里浜の火力発電所。

③
浜金谷。

④
浜金谷、むかしの漁港跡か、レールが残っていた。

⑤
旧「館山海軍航空隊」(現・海上自衛隊館山航空基地)の背後の赤山に掘られた「赤山地下壕」跡。1944年(昭和19年)から本格的に掘られたという説が有力だが、はっきりしない。「航空隊」の空襲に備えた地下壕として使用されていたが、敗戦時にはまだ未完成だった。総延長1.6キロ。

⑥
同「赤山地下壕」跡。

⑦
白浜のホテルのすぐ隣に自然が残る。

⑧
網の下につける素焼きの重り。

民権の森から<田園の憂鬱②-7>  

本編とは無関係ですが、昨日(2/6)、石元泰博さんが亡くなられました。『シカゴ・シカゴ』『ある日ある所』は素晴らしい写真集です、私見ですがこれに匹敵するするのはロバート・フランクぐらいしかいないのではないでしょうか?『桂離宮』から「造形美」が評価されていくのは、逆に残念な感じがしました。Chicago ChicagoもSomeday Somewhereも再刊してもらえないでしょうか?というよりも、写真家の「全集」という形で出版できないのだろうか?

町田市街のはずれ野津田に「町田市立 自由民権資料館」があります。展示資料の撮影が禁止されているのはお役所的な感じがしますが、自由民権運動について勉強するにはうってつけの施設です。明治10年代から20年前半にかけて、この辺から八王子、三多摩地区にかけては自由民権運動が盛んなところでした。自由民権運動というのは、深さにおいても思想的な幅においても幅の広い運動だったようです。町田あたりは豪農を中心に進められた運動のようです、といって保守的だったわけではなく、徹底した相互討論、演説と啓蒙運動を行ったようです。「ようです」としか表現できないので、すこし資料館に通って勉強する必要があります。困民党と民権運動との関係は?それから、朝鮮に対しては「民権運動の右から左まで」が「文明開化を迫る」という立場であったという指摘もあり、対朝鮮に関しては侵略の布石をつくったひとつでもある、というのが以前から気になっていたので、勉強してみます。ということで、今回はわたしの勉強への「入口」編となります。

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資料館と鶴見川をはさんだ南側に「薬師池公園」があり、そのなかにこの「自由民権の像」があり、野津田の石阪昌孝らの民権への理想に燃えた活動を讃え「現代に呼びさまそう」と訴えています。

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下小山田にあった「繭乾燥倉」が資料館庭に移築されている。絹は戦前には、八王子に集積されて横浜から欧米に輸出され外貨をかせいだ貴重なものでした。八王子から横浜へと「絹の道」があり、10数年前まではその一部が残されていた。養蚕農家が民権運動を主要にになったので「民権の道」とも言われ、現在でも野津田から小山田にかけて桑畑が散在します(以前この辺の農家の人に聞いたのですが、現在は施設とか小集団で養蚕をやっているところに出している、と)。

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雑穀・米を籾のまま保存するための小屋「板倉」。相原に、幕末に建てられたものを解体復元し、薬師池公園に保存している。「ねずみ返し」が付いている。

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「野津田神社」境内。

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同境内。明治11年建立の「庚申塚」の三猿。民権運動は「見ざる聞かざる言わざる」とは正反対の運動であった。

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同神社裏に「民権の森」が残る。

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森の真ん中に、自由民権運動の指導者の一人、石阪昌孝の墓がある。その近くに、かれの娘と北村透谷とが出会ったことを記念した碑があるというのだが、見つからなかった。

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「民権の森」からの風景は明治の昔と変わらないようだ(農業的基盤はまったく異なってしまったが)。

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