写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

家 東池袋<東京TOKYO-10>  

わたしは東京に育って、いまだに「横浜都民」なんて言ってるが、実は東京に行くたびにあまりの変化に驚いている。景気が良くても悪くても、無秩序的にscrap and buildを続けている。僕たちの世代には当たり前の町並みが、いまや孤立し無くなろうとしている。
東京の町というのは、関東大震災と空襲によってそのほとんどが焼け野原と化し、その後も東京オリンピックに伴う大改造、バブルとその崩壊による巨大ビルの乱立と更地化によって、古いものが文化として残されず、わずかに残るものはただ「老朽化」という称号を背負うのみ。
東池袋周辺では、都電荒川線の両側に明治通りのバイパスが建設中で、のっぺりとした家の裏側や横手がむき出しになっている。撮影中、やがて立ち退きになる家のご主人が二階から「こんなボロ屋、撮らなくたっていいよ」と力なくおっしゃった。






























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千葉空襲②-7参考:<アジア太平洋戦争遺跡遺品②-7>
現在は千葉大医学部の校舎になっているが戦時中は千葉医科病院(千葉大医学部附属病院の前身)で、千葉空襲(1945年6~7月に3回あったが7日は「七夕空襲」と言われている)時には被災者の収容・治療の拠点となった。病院北側の都川以北がほとんど壊滅したが、病院側の被害は少なかった。
8/16(今年)NHKの「関東ネットワーク」で、当時2年生で治療にあたった方の証言があった。
わたしの祖父母一家はすぐ北側に住んでいて被弾、風呂場の天井に火が上がり消し止めたが、祖母が被弾し同病院に収容され治療を受けたが甲斐なく亡くなった。死傷者1,204名のひとりです。そのあと(敗戦後)わたしが生まれました。



古くは1874年(明治7年)「共立病院」として開設、1936年(昭和11年)「附属医院新館」として造られた(翌年移転)。


入ってすぐの吹抜け天井部にはステンドグラスがある。


同吹抜け部。


吹抜け部床は、タイルを使ったモザイク。


玄関、吹抜け部はアールデコの典型的なデザインになっている。昭和初期とは、関東大震災後の建築界に新しい流れをもたらした時期とも言えるのだろう。


美しいデザインには目もくれず、多くの被災者が治療室へ運ばれた。廊下もなにも、修羅場と化した。


治療の中心となったところは、現在は教授室になっている。


この階段も担架でごったがえしたであろう。


裏口側も吹抜けになっている。ステンドグラスはないが、しゃれたデザインに仕上がっている。


裏口(東側)。


辛亥革命赤十字隊記念碑。辛亥革命にはせ参じようとした39名の中国人留学生に、学校をあげて医療技術、機器・薬剤さらには資金援助までして送り出し、「赤十字隊」派遣一年後に感謝の記念碑を建立。原文は中国語。


「昭和17年」「記念樹」と読めるが、由来は不明、玄関向かって右手。


旧病院裏手には、中世から「疫病災害を除く神」として崇められてきた「七天王塚」の一つが「千葉市指定史跡」として残っている。北斗七星の形に配置してある七つの塚。


病院(現・医学部本校舎)のすぐ北側は精神科病棟だった、サークル棟として使ったようだが、現在は老朽化して使われていないようだ。この建物もアールデコだ。


同・旧精神科棟。


敗戦時には建物が残っていたようだが、何に使われていたかは不明。向こうの町並みが亀井町あたり。当時10歳だった叔母は、病院の灯が点いたら遊びをやめて家に帰った「少し懐かしい」と。


草に覆われた下にも古い建物の跡がのこっている。東側の、現在の「千葉大学医学部付属病院」も含めて再開発計画が進んでいる。
東名の相良牧之原ICを降りたところが、旧「大井海軍航空隊(大井空)」の南西端あたりになる。ここから北へ1.5キロほど行った所に航空隊正門および各種施設が集中していた。その一部が、牧之原郵便局周辺に遺っている、また郵便局のすぐ北側路地を入ると「牧之原コミュニティセンター」(機関科倉庫跡地)が地区の人々により運営されていて、航空隊関係の資料も展示されている。わたしが訪れたときは、地域のお年寄が体操をしていた。
後半、大井川遠景以降は、1945年7月26日朝の「島田空襲」跡です。同空襲では、島田駅北側の扇町という狭い地域に一発の特殊高性能1万ポンド(約4.5トン)爆弾が投下され、即死者・重傷後死者合わせ47人、負傷者150余人、家屋・建物の損壊だった。そして、同空襲は11日後広島へ、14日後長崎に投下された原爆の投下訓練であった。長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」と同型同重量の「パンプキン」と呼ばれた爆弾だった(49発投下された1発がこの島田空襲。素朴に思うのだが、広島型模擬爆弾を使用した訓練は行われなかったのだろうか?)。

NHK「その時歴史が動いた」2008年8月放送、『静岡県の戦争遺跡を歩く』(前回紹介)など参考にしました。
 

牧之原は茶畑がひろがる台地だ。茶畑と養豚場。


ミツバチを飼う人もいる。「(ハチが)少しで恥ずかしいよ」とお年寄り。


「大井空」は、1939年に計画され1942年4月に開隊した。霞ヶ浦・土浦で基礎訓練を終えた練習生に偵察員養成訓練を施す基地という位置づけであったが、1945年には特攻作戦訓練基地としての任務も帯び、出撃基地から出撃・戦死した者も多い(『・・・歩く』より)。白菊、通称「赤トンボ」。


同機エンジン(コミュニティセンターに展示)。


「海軍魂注入棒」(同センター)。


戦争末期、ここも壕をいくつも造った。これはコミュニティセンター近くの道路際に遺る壕入口。


正門左側門柱が遺る。


さきの「壕入口」横の「防空用司令部(作戦室)」跡(位置的には両者はつながっていると見えるが)。


「整備科倉庫」跡、大井航空隊の建物で唯一残っている。


牧之原の台地北辺から大井川を望む。手前が金谷、青い橋(県道381)を渡ったところが島田市。


パンプキンの爆心地、現・扇町公園に建つ「平和の礎」、向こうが隣接する曹洞宗「普門院」。


「平和の礎」裏面に亡くなられた方47名の名が刻まれている。女性が多いことに気づいた。


普門院右門柱に爆弾の破片がめり込んだ。


同跡アップ。


普門院。


島田宿跡。


島田宿跡地にある島田市博物館に収蔵されているパンプキンの破片。


同博物館収蔵の「ビラ」。


同博物館中心の、樹齢300年のマキ。
ベニヤ板製の特攻兵器「震洋」の掩体壕をたずねて、三保に行った。奄美で「震洋隊長」だった島尾敏雄をして言わしめた「あれを見たらほんとうに、がっくりきますね」、という特攻兵器であった。それでも「本土決戦」を主張する者は、着々と?準備を進めていた。一方で「逆転ホームラン」を狙って「原爆製造」にも着手していた。「末期の狂気」と言わずしてなんと言おうか。
東静岡では、将校集会場、訓練講堂、遺品館をたずねた。まだまだ暑い秋の一日だった。

『静岡県の戦争遺跡を歩く』(静岡県戦争遺跡研究会、静岡新聞2009年発行)、静岡県護国神社遺品館など参考。

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「震洋」掩体壕、地元では単に「防空壕」と呼んでいて、関心のない人が多い。

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この掩体壕(上の写真と同じもの)は奥行きも深く、大型バスでも入れると思えた。


震洋の模型。静岡県護国神社遺品館収蔵。1944年、海軍も壊滅状態になり「人間魚雷」製造もままならず、このベニヤ板製の「震洋」が建造された。一人ないしは二人の乗り組みで、船首に250キロ爆弾を装備した特攻モーターボートであった。艦艇とはみなされず兵器として扱われ「一基二基」と数えられ、操縦する少年・青年たちも兵器の「部品」という位置づけだったという。三保配備のものは「本土決戦」への備えでした。

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中のサーフボードと比較してほしいが、これは小さく奥行きも短い。敗戦後に住居などに使われたというので、寸断されたものなのかどうかは分からないが。

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三保マリーナにある掩体壕は、物置として使用されていた。

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同マリーナ内掩体壕を側面から見た。


三保は松原を見るまでもなく美しいところだ、三保造船。


東海大学海洋科学博物館に展示されている「東海大学丸二世」(1968~1993)、海洋観測船だった。


かつての港湾施設の跡なのだろうか、港に沿って歩いているといろいろ残っている。


前回清水を撮影したときに見た美しい教会は、「カトリック清水教会」だった。1935年に茶畑に建設されたのが現在の教会、1945年7月7日の「清水大空襲」にも耐え抜き、7月31日の艦砲射撃と機銃掃射時には焼け出された市民の宿舎となり、負傷した市民の血で聖堂内が染まったという。


静岡県護国寺遺品館収蔵。1978年、レイテ島山中より遺骨収集巡拝団が発見し収容したもの。


静岡県護国神社。


愛国婦人会静岡県支部第二回総会御親授記念、1935年。パノラマ写真の一部。


同遺品館収蔵品。


同収蔵品。ミンダナオ島ダバオ市海岸で収集した兵器の一部とサンゴ、貝殻。


陸軍静岡歩兵第34連隊将校集会所(現・「つつじ会館別館」)。正面に車が駐めてあったので17時過ぎに出直した。玄関右手には、サイパン島で3千有余名が玉砕した静岡の「伊藤部隊」(歩兵118連隊)の慰霊碑、記念植樹などで建物すべては見渡せないが、玄関を真ん中に左右対称になっている。大きな建物だ。


旧陸軍静岡練兵場訓練講堂。現在は市内に移築され、個人宅として使用されている。

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「説明写真」となりましたが、白矢印の「タコの吸盤状」の通気穴は、この建物が毒ガス訓練に使われたことを物語る。小さな建物だが、そんな目的に使われていたのだ。


撮影しているうちに夕闇がせまってきた。

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