写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

The Great Kanto Earthquake of 1923 両国<東京TOKYO-33>  

明後日9/1は、10万人の死者をだした関東大震災90周年。阪神・淡路大震災いらい地殻の大変動期に入ったという学者もいて、事実太平洋をとりまく大地震が相次ぎ、一昨年の東日本大地震とその余震(予測される大余震)や東南海地震が危ぶまれている。今回はこのblogで3回目になるが、4万人が避難し3万8千人が亡くなった「被服廠跡」現・両国の「横網町公園」を取り上げた。公園内の「復興記念館」に、皇居前広場に30万人が避難したときのパノラマ写真が展示されたというので、ここを中心に撮影した(館内の撮影には許可が必要です)。関東大震災の被害をより大きくしたのは、発生時間が11:58と昼食時だったことから火災が発生し、折り悪く能登半島に台風があって関東には強い南風が吹き荒れ大火災となったことによる。明後日は、様々な取り組みが行われるので積極的にアンテナを張って・参加しよう・・・と、自戒をこめて。

両国1
3枚の写真をつなげたパノラマ写真、広角でもわずかに入りきらない。大八車が多い、火災現場ではこれが高熱によって突然燃えあがったという。

両国2
「日テレ」が取材に来ていて、9/1に放送だそうです、見てね!

両国3
日比谷の交差点。手前右手が日比谷公園であろうか?むこうの煙は、手書きで描き加えているそうです。

両国4
4万人が避難した被服廠跡(当時は更地で避難地域に指定されていて悲劇が起きた)の絵葉書。この煙も手書きや合成がされているが、実際に起こったことはもっとひどい惨状となった。

両国5
被服廠跡の3万8千人の遺体はここで荼毘にふされた。遺骨は3メートルにもなったという。ここが現在の東京都慰霊堂になった。

両国6
上野駅が焼失したため田端からの東北線で避難する人々。

両国7
当時1年生だった比護財二さんが1年後に描いた横川橋の絵、「空には焼けたトタンや自転車が曲がりくねったようになって飛んでいた」「橋の上は~どんどん人が押し寄せ~阿鼻叫喚の地獄」と書いています。

両国8
六番町の焼け跡から発見された石膏胸像は焼けただれていた。

両国9
丸の内の内外ビル玄関脇の破損した柱。

両国10
自動車の焼骸。銀座明治屋で使用していた車両番号第一号。

両国11
大日本麦酒吾妻橋工場内の鉄柱が溶解してかたまりとなったもの。大火災による酸欠で亡くなった方も多かった。
スポンサーサイト

陸軍気象部 高円寺<アジア太平洋戦争遺跡遺品④-1>  

高円寺に「陸軍気象部」があったことを先輩が教えてくれた。風船爆弾を飛ばすための研究をしていたという話だった。高円寺北の「馬橋公園」がその跡地だったことが分かったが、平和な公園があるだけでなんの痕跡もない。「公園の沿革」という石碑にも戦中・戦前のことはまったく触れられていず、戦後の「気象研究所」の話が述べられているだけだった。たまたま公園で涼んでいる方と話すと、陸軍気象部はもっと大きなものだったこと、中野学校の分校的な「スパイ学校」であり気象部門は小さな一角だけだったという話だった。中野学校のほうから早稲田通りに並行して広い道路があった、自分は終戦時4年生で、縁故疎開で前橋に行き、前橋空襲に遭い川越に移った、戦争というものはひどいもので二度とあんなことをしてはいけない!と強く仰っていた。調べてみると、馬橋公園、小学校、NTT、マンション、気象庁官舎を含めた一角が元気象部であり北側の一部は住宅になっていた。「中野学校からの道路」は明治期の鉄道連隊が線路を敷設して訓練をしていたところであり、早稲田通りを東にたどってみると1キロちょっとに中野学校、その向こうは戸山の練兵場などの重要な施設に連なっていた。気象は地味ではあるが、飛行機が戦況を左右するようになった第二次世界大戦時にはとりわけ重要なことだったはずだ。雲に覆われていた小倉に原爆が落とされず長崎に落とされたのであり、各種作戦には必要不可欠な軍事科学であった。ここから戦地に多くの気象隊(員)が派遣されていった。なお、正門右手にあった「気象神社」は戦後に高円寺駅すぐ南の氷川神社に移された。

気象部1

気象部2

気象部3

気象部4

気象部6

気象部7

気象部8

気象部9

気象部10

気象部11

気象部12

気象部13

気象部14

気象部15

気象部17

気象部18

気象部19

気象部20

気象部21

気象部22

気象部23

実用してる実用車 内藤町<東京TOKYO-32>  

霞町(西麻布)を撮影していたらなんか気持ち悪くなってきた、むかしなった「熱中症」だ!?やばし、とにかくクーラーのあるところで休んで帰宅・・・の途中、内藤町(新宿御苑脇)のふつうのマンションに2台、現在も使われている「実用車」、丸石と山口ベニーを発見!トップチューブが微妙に曲がっているのは、実用性?デザイン的流行?前輪の上に付いているのは「風切り」というらしい。とにかく暑くて、しばらく「夏休み」します。

9523434838_924816f3e5_z[1]

9520650703_21db6a1cd8_z[1]

9523434400_11531cb6b9_z[1]

9520650915_1c4e5ebcd6_z[1]

9523434552_8c198bdb4d_z[1]

さんさん館 旧林際小学校<或日或処③-4>  

南三陸町で泊まったのは入谷地区の「さんさん館」という、127年の歴史をもつ元林際(はやしぎわ)小学校だった校舎を保存した宿泊施設だ。木造校舎そのままの、しかし中はバス、トイレ付の清潔なベッドが入り、食事も地元の食材を生かしたおいしいものだった。参考までに、紹介しておこう。

01林際

02林際

03林際

04林際

05林際

06林際

07林際

<番外その2>南三陸町を訪れて  

7/31(水)仙台から県道8号を、今回は逆向きに車で走った(前回2009年は下記を参照してください)。
<緊急番外 東北関東大地震・津波・原発被災者に支援を!!> 
8号から自動車専用道に乗ると石巻のどこを走っているのか皆目わからなくなったが、降りると少し記憶が蘇る。市街の外れに仮設住宅があり、雨の中女性が一軒々々呼びかけている、なんだろう?話してみると、市が催す健康相談会の案内をしているFさん、住宅からはほとんど反応がない。若い人は仕事に出かけて、お年寄りが留守番しているからなのだろうか。女川町は倒壊したビルがひとつ残るだけで、周りは住宅の土台が残るのみ、トンネルを二つくぐれば泊まったことのある雄勝町の民宿Yさんのところだが、ここもなにもなく道路だけが記憶を蘇らせる。北上川河口の大川小学校の建物は残っていた。神割崎は見た目変わらないが、地盤沈下していた。戸倉に入ると、仮設のコンビニがあった、JRは石巻からここまで復旧させここから気仙沼まではBRTにするそうだ。
志津川に入ると、45号線沿いには古竹会館、NTT、とガソリンスタンド(いずれも跡)以外は、ガレキ処理の作業現場になっていた。2009年にお世話になった中華料理屋跡は川沿いなのですぐ分かったが、ここも周囲と同じく土台を残すばかりだ(いわゆる「生活ガレキ」は大方片付いたが、建物の壁、土台などのガレキは大変な量が残っている)。翌日、「さんさん商店街」(30軒で復興の一環で立ち上げた商店街)で教えて頂いたのだが、中華料理屋のご一家は全員亡くなられたということでした、合掌するのみでした。

1志津川駅跡
志津川駅構内跡。JRバスを使う人の自転車が数台置いてあった。

2さんさん商店街
小山からの高校生たち。仮設の建物で営業を始めた「さんさん商店街」は、午前中はあまり人はいなかったが午後は地元の人、「被災地ツアー」の団体で混み合っていた。ぼくもその一人なのだが、現実を自分の目で見ることは必要なことだと思う、ただ被災者とツアー客とのギャップは大きい、しかしその現実からしか始まらない。「さんさん商店街」と「歌津伊里前福幸商店街」でこれからの町の核ができている(役場、警察、消防署、ボランティア本部などは高台の沼田地区に移った)。

3出漁サンマ漁船
8/7に出航し北方領土の近くの漁場に向かう準備中のサンマ漁船。解禁は8/10から。「イカ釣りですか?」と聞いたら、となりが(右隣)イカで、集魚灯の付き方が違うことなど丁寧に教えてくれた、豊漁を祈る!

4志津川記念碑 小
志津川小学校下(元同小学校があった場所)に残る記念碑には、「この地は明治21年に旭製糸(株)が創設され、当時の先端産業である生糸生産したところである。その銘柄 金華山は世界各国で催された万博で常にグランプリを獲得し」生糸産業が下火になった昭和12年に、焼失した志津川小に土地建物が提供され昭和15年~56年まで小学校であった旨が記されている。碑は津波に翻弄され傷だらけだった。

※なお、南三陸に育った地元の写真家・佐藤信一さんが3.11から現在までを克明に撮影し、『南三陸から』vol.1、2、3(日本文芸社、ADK南三陸町復興支援プロジェクト) の3冊が出版され、同時に写真展が全国を巡回中です。

仙台ふたり<或日或処③-3>  

一昨年夏に新幹線で青森から帰るときに、車窓から見える仙台~福島間の家の多くがブルーシートで覆われていた、まだ東日本大震災の爪痕が生々しい時だったのだ。きょうNHKで「大船渡 生死を分けた漁師の判断」が放送されていたが、総じて被災地の復旧・復興の進展ぐあいが関東近県では報道されなくなってきている。一度、自分の目で確かめてみようと常々考えていた…今回は南三陸町で、地元の木材を使って「木の家で循環型のくらし」で「地域再生」を目指している友人との一年ぶりの再会も楽しみにして。出発が遅いので、4年ぶりの仙台に立ち寄って翌日南三陸町に入ることにした。

仙台二人01

仙台二人02

仙台二人03

仙台二人04

仙台二人05

仙台二人06

仙台二人07

仙台二人08

仙台二人09

仙台二人10

仙台二人11

仙台二人12

プロフィール

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

QRコード

ご意見・ご感想などこちらから

カウンター