写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

似島へ 広島HIROSHIMA<アジア太平洋戦争④-6>  

叔父さん叔母さん、お元気ですか?わたしは呉からフェリーで宇品港に入り、似島へ渡りました。叔父さんの家に世話になって宇品線を撮っていたときからそろそろ半世紀が経とうとしているのですから、変わらないほうが変ですが、久々の宇品港も宇品線(なんてとっくになくなって)跡も記憶の片隅を突いても丸っきり分かりません。似島までフェリーで20分、周囲16キロの小さな島には交通というものは何もないので、おじいさん(と見たひとは同年輩だからおそろしい)山を登りながら話し込みました。「1,400人ぐらいいた島民が、いまでは900人を割って寂しいかぎりだ」でも市内に通勤する人もいるでしょう?「いたんだけれど、フェリーの関係で残業ができないから、市内に越しちゃう」。

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帰還兵が持ち込む伝染病を防ぐために人と馬との検疫所が設けられた。皮肉なことに戦争末期には帰還する将兵も減り医薬品・施設がそこそこあった、市内の病院は壊滅し1万人の被爆者が次々と避難してきたが、治療もむなしく多くの人々が亡くなった。荼毘に付すのに間に合わず土葬された人も多く、70年代の工事で遺骨が出て慰霊碑が建てられている。広電車内から。

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20分で西側の似島(にのしま)桟橋着。

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低い峠を越して東側へ行く、こちら側の「第二検疫所」と「馬匹検疫所」が主たる治療所になった。

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峠を越えるとイチジク畑。

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サッカーが盛んな島、第一次世界大戦時のドイツ軍捕虜との交歓サッカーも行われている。また、その捕虜のひとりユーハイムさんがバウムクーヘンを焼き、産業奨励館(のちの原爆ドーム)に出品し絶賛された。

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この湾に沿って中学校、小学校、少年自然の家、平和養老館一帯が治療所となった。

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中学校校庭。

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たこつぼ。

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小学校隣から臨海公園に移設・保存された「馬匹焼却炉」、多くの遺体焼却に使用された。

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ホタテの殻でカキの稚貝を育てる。

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1946年に原爆孤児たちのためにつくられた「似島学園」。現在は「似島学園」中学校と高等養護部。

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似島学園の船、生徒と教職員用で、「親でも乗せてもらえない」と。

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似島学園前から宇品港へ。
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れんが通り 呉<或日或処④-1>  

呉はかつて鎮守府が置かれた有数な軍港であり(鎮守府は他に横須賀、佐世保、舞鶴)、海軍工廠では「赤城」「大和」をはじめとした軍艦が建造された。呉線をはさんだ北側は市内電車が走り市庁舎など町の中心であり、45万人の人口の賑やかな街だった。いま「人口25万人、さびしくなった」と話すのは「れんが通り」でお会いした男性、戦時中は学徒動員で海軍工廠で働いていたというので80代半ばになる方だ。

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梅雨の終りに 荏田<田園の憂鬱⑤-9>  

右かと思うと左、左と思うと右~PK戦のGKの困惑・・・・なんとか「コツ」をつかめたようだが次回は秋かな。『稲妻4題』

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写真集カバー背景

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毒ガスの島 大久野島・下<アジア太平洋戦争④-5>  

周囲4キロ標高100mの小さな島は、日清・日露戦争の頃は「芸予要塞」としての「役割」を果たしたがその後は撤退し、農家7件と灯台守など10数人の住民しかいない寂しい島となった。1927年(昭和2年)から毒ガス工場建設が始まり、総計6,600トンを生産した。アッツ島とベトナムへ「茶びん」(青酸ガス)が送られた(使用については不明)以外、ほとんどは中国戦線で使用された。中国に遺棄された毒ガス弾と、大久野島周辺で処理された毒ガスは今なお解決に至っていない。1945年には毒ガス生産は縮小され(原材料・資材の不足のためと思うが)、風船爆弾を動員学徒の中学生・女学生らが製造した。なお忠海、大三島、阿波島にも貯蔵庫が設けられた。

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中部砲台跡(海抜100m)。

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中部砲台跡への途中、シダが多い。

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北部砲台の弾薬庫跡。

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東側の火薬庫跡(朝鮮戦争でも使用された、「MAG1」)。

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発電所跡の一部。

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同発電所跡の一部(「MAG2」は朝鮮戦争時の米軍の印)。

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1929年5月、この埠頭で盛大な開所式が行われた。

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検査工室跡(工室は工場)。

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南部砲台への途中、破壊されているので毒ガス関連施設と思われるが不明。

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表桟橋。

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研究室跡。

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休暇村前、かつては工場が立て込んでいたところ。

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休暇村の収入源のひとつ、島内に生息する数百羽のウサギ用えさ、7~10日分ということでした。

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ガラすきのフェリーで忠海へ。

毒ガスの島 大久野島・上<アジア太平洋戦争④-4>  

今年は第一次世界大戦100年、TVの特集を見ていたら「3大新兵器」として「毒ガス、戦車、機関銃」といっていた。これら以外にも、後年から考えればまだ初歩的ではあったが「飛行機」があがるだろう、潜水艦も登場している。現在でも「弱者の核兵器」「大量破壊兵器」とされる化学兵器なかでも毒ガスに関しては、本blogでも「相模海軍工廠(寒川)」「同化学実験部(平塚)」「第六陸軍技術研究所(百人町)」「曽根製造所(北九州)」「陸軍習志野学校」を取り上げたが、今回は「地図から消された島」日本最大の毒ガス生産工場と化した瀬戸内海の大久野島を訪れた。そこは、これまでに何回か眺めていたことのある小さい島だった。

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呉線忠海駅に近づく車内(清盛の父・忠盛の「忠」をとって忠海ただのうみ、大三島側が「盛」)。

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唯一の施設「休暇村」へのバス。きょうあたりからは海水浴客で乗り切れないそうだ(歩いてもすぐ)。

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「毒ガス資料館」(小さいが貴重な資料が多い)横の製造機器(陶磁器製)。生産工場は1946~47年にかけて米軍により破壊・撤去された(焼却、埋蔵、海底投棄~現在でも工事中の被災事故がある)。

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製造毒ガスの一覧。

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大久野島神社。

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医務室跡(木は当時からのもの)。島中に異臭が漂って看護婦までガスにやられた、工場内で働いたひとはみな被災し長く苦しんだ(友人の叔父は呼吸器をやられ亡くなった)

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瀬戸内海。

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三軒家の毒ガス貯蔵庫、タンクの台。

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日本庭園跡。

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トイレ跡。

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長浦毒ガス貯蔵庫跡(火炎放射器で焼かれている)。

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北部砲台(砲台そのものは日露戦争時のもの)のガスタンク台座。

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北部砲台の兵舎跡。

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中部砲台の兵舎跡。

矢上川3 久末・高田<田園の憂鬱⑤-8>  

五反田橋の南側台地が久末と高田。周囲の住宅地から取り残されたような畑地に出る。標高50mぐらい、後楽園ドーム1つ分ぐらいの広さ?よく見ると小さく寸断された畑、市民貸農園、荒れた草っ原がぐちゃぐちゃとまじっている。むかしはカリフラワーを作って、朝も暗いうちに食事も片づけも終えて、横浜か世田谷の市場まで運んだそうだ。いまは、山(大きな林)を持ってる家は華屋与兵衛とマンションを経営して子どもは慶応に行かせたとか、生臭い話。しかし東急をはじめ大手不動産が虎視眈々と狙っているなかで、そのくらいの生活力がないとネェ…!?撮影中、トマトとキュウリをいただきました!

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