写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

秋雨早々と 茅ヶ崎(横浜)<田園の憂鬱⑥-2>  

「(今夏は)逃げ出したくなるほどの猛暑となりました。ところが8月中旬以降は夏が失速して、ここ1週間は秋雨前線や湿った空気の影響で、ろくに太陽を見られない状態が続いています」(weather mapより)。なるほど「失速」だそうです、そして平均すれば8月の気温は「平年並み」になると?それでもまだ8月を感じるのは、林に入っていくと無数のやぶ蚊が襲ってくることと、蜘蛛の巣がすごいことでした、「虫よけスプレー」なんてまるで効果なし!?

秋雨茅ヶ崎001

秋雨茅ヶ崎002

秋雨茅ヶ崎003

秋雨茅ヶ崎004

秋雨茅ヶ崎005

秋雨茅ヶ崎006

秋雨茅ヶ崎007

秋雨茅ヶ崎008

秋雨茅ヶ崎009

秋雨茅ヶ崎010

秋雨茅ヶ崎011

秋雨茅ヶ崎012
スポンサーサイト

猛暑わすれて 小野路<田園の憂鬱⑥-1>  

思い出すのもいやなほど暑い暑い夏でした(と過去形でよいのかな?)。「8日間連続の猛暑日」は観測史上初、その中を自転車で走るのも怖くてなるべく引きこもりの夏・・・しかし、きょうはやや肌寒いほどでした。例年ならば9月の上旬までは我慢の暑さなんですが、これでお許し願えれば意外と楽な夏であった?でももう8月も数日をのこすのみ、草木は少しずつ秋を深めていた小野路の8月25日、ときどき雨。

小野路秋気配001

小野路秋気配002

小野路秋気配003

小野路秋気配004

小野路秋気配005

小野路秋気配006

小野路秋気配007

小野路秋気配008

小野路秋気配009

小野路秋気配010

小野路秋気配011

小野路秋気配012

空襲について 武蔵野小田原<アジア太平洋戦争⑤-2>  

前々回の小田原空襲が8/14のポツダム宣言受諾後の「最後の空襲」であり、前回の中島飛行機武蔵製作所空襲がマリアナからの本格的な空襲の始まりであった(先立つのは、1942年4月のB25による「ドーリトル空襲」、1944年6月の成都を飛び立ったB29による「八幡空襲」、1944年10月の空母搭載機による沖縄への「十・十空襲」など)。軍需工場などを目標とした空中爆撃といっても当初から周辺地をも巻き込んでいたのだが、やがては意図的・目的的に民間人を大量に殺戮する無差別爆撃そのものへと変貌していった。第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機はまだまだ初歩的なものだったが、やがて、スペイン内戦の1937年にはバスク地方の「ゲルニカ爆撃」、日中戦争時の日本軍による「重慶爆撃」(1938年-1943年)と、現代戦争の帰趨を制する兵器となっていった。
戦時中の武蔵野・三鷹から立川にかけては中島飛行機を中心とした航空機産業の中心であったが、他方、小田原は小さな城下町でしかなかった。8/15の小田原空襲は、埼玉群馬方面の空襲で余った爆弾(焼夷弾)を「帰りがけの駄賃」的に落としたものだった。北側から燃えひろがり、南の旧東海道までが消失した。旧東海道に面した、参勤交代の本陣だった古清水旅館は「焼け止まり」で、現在はマンション2階に「旧本陣古清水旅館資料館」をのこしている。


武蔵野小田原001
武蔵野市ふるさと歴史館展示のプロペラ(延命寺所蔵)。

武蔵野小田原002
旧本陣・古清水旅館の欄間(波紋がデザインされている)。

武蔵野小田原003
正面「国際通り」から爆撃され、右下の「カフェ・ナナ」は8発の焼夷弾が落とされたと、壁面に碑をはめこんでいる。

中島飛行機跡 武蔵野市<アジア太平洋戦争⑤-1>  

「戦後70年」、いつまで「戦後」と言っていられるのか?キナ臭い時代になっているが・・・。各地でも戦争をふりかえる特集展が行われているので、比較的小さな展示に行った。小田原高校(旧制小田原中学)の展示(前回掲載)、三鷹市と今回は武蔵野市(市役所と「ふるさと歴史館」の2個所で行われていた)の計4個所を回った。とくに武蔵野市は、中島飛行機武蔵製作所の跡地に建っているのでこの特集となっていた。中島飛行機は戦時中の「隼」「疾風」などを開発し(「ゼロ戦」の搭載エンジンも中島製)、世界有数の航空機製造企業となり戦争末期には三菱の倍の生産を誇っていた。1944年11月、サイパンを飛び立ったB29などが最初に襲ったのもここ中島飛行機武蔵製作所であったのもいわば当然でもあった。敗戦までに9回の空襲を受け、工場の労働者、従業員、勤労学徒ら200名以上が亡くなり(死傷者1000名)、近隣住民はそれを上回る被害を受けた。 250キロ爆弾(延命寺)、製作所跡地は中央公園(全体の一部)、団地などになっている、「月待台」高射砲台座とも言われるが?、爆撃で破壊された墓石(源正寺)、高射砲弾頭、この地域は夕立が多い。【8/15追記】「ふるさと歴史館」で見たビデオで、勤労学徒だった女性が「卒業だったが、‛蛍の光’も‛仰げば尊し’も唄えず卒業証書の紙がなく証書ももらえなかった」と言っていました(蛇足ながら9/21追記、両曲とも原曲は「鬼畜米英」の曲なので禁止された)。

中島飛行機001

中島飛行機002

中島飛行機003

中島飛行機004

中島飛行機005

中島飛行機006

中島飛行機007

中島飛行機008

金次郎像の供出 小田原<アジア太平洋戦争④-16>  

二宮尊徳000

昨日(8/4)は「猛暑日5日連続、明治以来」というニュースを聞きながら小田原を歩いた。小田原城の上の小田原高校で、「戦後70年展 戦時・占領下の小田原中学」という展示を見るのが目的。小田原は1945年の8/15未明に空襲をうけ、402戸が焼失、死傷者113人の被害をだした、ポツダム宣言受諾決定後の空襲を受けた町のひとつだ。その町から「100段坂」(130段ほどの階段)を登ったところにある小田原高校には、足先だけが台座に乗っている奇妙な銅像が残っている。これは戦前小学校などに置かれた二宮尊徳像の「戦時供出」の残存(今回は「不鮮明」にしてあります)、地元ゆかりの尊徳さん没後80年の1935年に建立されたが1943年に「戦時供出」された跡ということだ。学徒動員では平塚の海軍火薬廠に行っているが、対岸の寒川毒ガス工場でも働かされていた。また、京浜工業地帯(の一部)溝ノ口の日本光学の工場にも動員され、鍵和田くんという少年が機銃掃射の犠牲になった~その日本光学の木造工場は、なんと私たちが学んだ写真学校の校舎だった!

二宮尊徳001
1928年(昭和3年)昭和天皇の即位記念としてつくられたブロンズ像は、「滅私奉公」を担わされて全国の小学校にさらに千体が置かれた。その時つくった像は、この一体をのぞきすべて供出された。

二宮尊徳005
じっさいの尊徳さんは幕末に生きた小田原のひとで、貧しい農村の改革・改良に尽くし、現在も小田原や栃木に用水などの遺構がある。

二宮尊徳002
「100段坂」、130段ぐらいありました。

二宮尊徳003

二宮尊徳004
これわかる人はツウです。

二宮尊徳006
以下、小田原城内、象のウメ子は6年前に推定62歳で亡くなりました(人間でいえば100歳をこえるそうです)、汽車ぽっぽ、ウメ子さん、娘たちが小さいころにお世話になりました・・・。

二宮尊徳007

二宮尊徳008
わたしもこの店に逃げ込みました。

プロフィール

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

QRコード

ご意見・ご感想などこちらから

カウンター