写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

樹を見るひと 目黒自然教育園<再建樹木派①-2>  

「東京の良さ」というとき、わたしは意外と緑が多いことと思う。庭園、緑園、植物園が散在し楽しめる。ここ目黒自然教育園は、首都高と国道とビルとに囲まれた苦しい立地条件にあるが、なるべく自然そのままにのこそうとしている緑地ということだ。樹が枯れそして再生していく様を見られるように、ということは逆に教育園関係者の大変な努力のうちに何とか保たれている「自然」であることがうかがわれる。以前、学芸員の方と話したときに「カラスが増え、シュロの実を運んでくるのでシュロが増えて困っている」ということでした、事実その日に園の北側に行くとカラスが多く、撮影中にポトンとお土産をいただいた。今回行ってみると、多くなったシュロを伐採したが・・・しかしそれは「都市特有の姿」でもあるということであえてシュロ林を残した一角がありました。

見る人目黒001

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みどり惜しまず 武蔵国分寺<再建樹木派①-1>  

「樹木派」というのは高見順の詩集から勝手にいただいた名前ですが、何年かぶりに撮ってみる気になって「第二期樹木派」という意味で「再建」とつけた。人間は縦方向に動くよりも水平方向に移動することが多く、目も水平に二つ付いている。写真でいえば「横位置」がいわば自然なのである。しかし樹木というのは(雪の多い高山などをのぞいて)縦方向に伸びているので、「縦位置」になる場合が多い。それでも根元から幹、そして美しく張っている枝と葉のすべてを撮ろうとすると困難に直面する。昨今はパノラマモードというのがあってそれを応用する手もあるのかも知れないが。紅葉を前にした(今季)最後の緑を9月に見た。
※昔の写真家は意外と「縦位置」の写真が多いが、これは好みの問題もさることながら、雑誌などのグラビアページを持っていたからだろうと個人的に推測する。

再建樹木派001イチョウ
イチョウ

再建樹木派002アカマツ
アカマツ

再建樹木派003クロマツ
クロマツ

再建樹木派004ケヤキ?
ケヤキ?

再建樹木派005トウカエデ
トウカエデ

再建樹木派006ネズミモチ
ネズミモチ

再建樹木派007キンモクセイ
キンモクセイ

再建樹木派008サワラ
サワラ

再建樹木派009エゴノキ
エゴノキ

再建樹木派010エノキ
エノキ

再建樹木派011ムクノキ
ムクノキ

再建樹木派012ミズキ
ミズキ

再建樹木派013ヒムロ
ヒムロ

再建樹木派014不明
不明

再建樹木派015イイギリ
イイギリ
戦争反対2
強行採決

続・強制疎開 根岸<アジア太平洋戦争⑤-4>  

根岸地図001
(地図、本文一部も『横濱49号』神奈川新聞社-より引用させていただきました)
「強制疎開」とは、空襲による火災の延焼を防ぐための家・建築物の机上・図面上で作成決定した強制的破壊であり、国家が別の場所に家を建ててくれるわけではない。補償金として3千円を超える場合には預金させられ、それ以下は国債が渡された(戦後紙切れとなった)。全国279都市の61万戸が取り壊され、その数は戦災による罹災家屋の1/4になるという。水にぬらしたハタキとバケツリレーで焼夷弾火災を消せるかのごとく喧伝されたのと同様、この「疎開」もほとんど効果がなかったことを思えば「1/4」という数は本末転倒と言うしかない。「疎開道路」は多くの場合、戦後復興や車社会到来による道路拡張などにまぎれ現在では不明になっているが、ここ根岸の掘割川両岸には5本が残っている。港湾や京浜工業地帯ではたらく労働者が多く住んでいた町だったそうだが(中浜町は路地に古い漁村の面影が残る、写真⑦⑧))、破壊された木材は三浦半島の本土決戦陣地用の資材として持ち去られたという。
当時自分の家の「強制疎開」に反対することは「非国民」であり受け入れざるをえなかったが、じつはウラがあったことは原民喜『夏の花』に描かれている。次男の家が「三日以内に立ち退き」と決まったときに、日ごろは遊び歩いている長男の妻が建物疎開の責任者の市会議員のところにいき「打ち切り」の約束をとりつけてくる。※元クリスチャンの次男は「立ち退き」決定に絶望して「神様三日以内にこの広島が大空襲をうけますように」と祈りをささげる場面のあとに、「・・・・・・原子爆弾がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった」と記す。


根岸疎開道路001

根岸疎開道路002

根岸疎開道路003

根岸疎開道路004

根岸疎開道路005

根岸疎開道路006

根岸疎開道路007
⑦中浜町の路地。
根岸疎開道路008
⑧中浜町の路地。
根岸疎開道路009
⑨森の上が米軍住宅。
根岸疎開道路010

根岸疎開道路011

番外編・・・「市電保存館」。屋外の架線用支柱の根元には横浜大空襲で被弾した穴が。「丸山市場」はシャッター化しているが、魚屋さんががんばっている~ここが美空ひばりの生家とかの話を聞き(わたしの記憶の場所とは違うような?)おかみさんに聞くと、ひばりのお父さんの弟(叔父?)の魚屋だったという話、歯切れ悪くも多少の縁のあったお店でした。

根岸疎開道路201補

根岸疎開道路202補

根岸疎開道路203補

根岸疎開道路301補

根岸疎開道路302補

根岸疎開道路303補

強制疎開 浅草六区<アジア太平洋戦争⑤-3>  

浅草六区地図-番号
久しぶりに神保町の古本街に行く機会があった。そこで高見順の『敗戦日記』を見つけた。文庫で読んだことがあるが、これは1959年に文芸春秋新社から出した単行本で「見返し」に著者手書きの地図が載っていた。インクの匂いがしそうな素晴らしい印刷の地図だった。そして、赤インクで記したところが1944年に行われた「強制疎開」で撤去された建物だ。
3月10日の「東京大空襲」直後の12日の日記から一部引用しました、「愛する浅草。私にとって、あの、不思議な魅力を持っていた浅草。<略>その浅草は一朝にして消え失せた。再建の日は来るだろうが、昔日の面影はもうとどめないに違いない。まるで違った浅草ができるだろう。あのゴタゴタした、沸騰しているような浅草、汚くごみごみした、だからそこに面白味があり、わけのわからぬ魅力があったあの浅草はもうない。永久に、ないのだろう」。


浅草六区001

浅草六区002
瓢箪池跡地のJRA。

浅草六区003
まんじゅう屋さん、荷がいっぱいのときは80キロになるという。

浅草六区004

浅草六区005

浅草六区006
「地蔵尊」のあったところにはクスノキが2本植えられていたが、宝くじ売り場があるのみ。

浅草六区007

浅草六区008

浅草六区009

浅草六区010

浅草六区011

浅草六区012
さりげなく、浅草で活躍した芸人の写真が飾ってある、「長門勇」(しかし、演芸や映画の街よりは、馬券売り場とパチスロ店が次第に増えている。

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