写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

秋の季 武蔵国分寺<東京TOKYO③-8>  

立冬も「木枯らし1号」もとっくに吹いてもなお秋深まるほどには気温はさがらない、暖かな毎日。わが家から多摩川を越えて北上すると「三億円事件」の府中刑務所をすぎ登り坂になる、中央線の線路が「国分寺崖線」の上を走っている。いまでは南面の斜面なので高級マンションも建っているが、公共的なスペース(公園とか大学)も多い。崖の下には水が湧きだし、「野川」という小さな川になって多摩川に合流している・・・秋のすえ。

国分寺秋季001
武蔵国分寺公園(西元地区)

国分寺秋季002
お鷹の道

国分寺秋季003
お鷹の道

国分寺秋季004
武蔵国分寺公園、ヤマグワ(枯れ落ちる時季に抗って新芽が?)

国分寺秋季005
殿ヶ谷戸公園

国分寺秋季006
殿ヶ谷戸公園

国分寺秋季007
殿ヶ谷戸公園

国分寺秋季008
お鷹の道ちかく、「あたたかすぎて出来が悪いよ」ということでした

国分寺秋季009
お鷹の道ちかく(わたしもこの方と同じくミニ白菜100円を買って、翌日は水炊きでした)
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長田港から 神戸<或日或処④-12>  

宗教心はとんとありませんが、街歩きのときにはなるべく寺社は覗いていくことにしています。日本中の町並みが同じようになっているなかで、中世からあまり移転していないのは寺社だけだからです。寺社が多い道はたいがいが昔の街道で、今回の須磨から三宮へと歩いた道も、現在は裏通り的ですがむかしの海岸に沿った街道だったようです。須磨~長田港あたりは埋め立ても少なく漁師町の面影を残すところもありました。平家の、そして源平合戦の歴史的な足跡を刻んだところでもあるので、ゆっくりと周ればまだまだ見どころはいっぱいあるようです。長田港で会った50歳ぐらいの粋な男性は、右手にウィスキー?左手に美女をという感じでこの辺の良さをいろいろ説明してくれました。「川崎重工、そうあっちのは車両工場だけど、この先は造船部門できのう潜水艦の進水式をやったんだ、惜しかったな」とか。

長田港から001
古川大明神。

長田港から002
昭和シェル石油。

長田港から003
平忠度の「腕塚」、忠度が右腕を切り落とされ最期を遂げた地(とされる)。この塚(というか塔)に触れ自分の痛いところ病んでいるところに触れると治る・・・というので一応腰にパワーを与えましたが?

長田港から004
長田港。わたしよりやや年配の方が油絵を描いていました。

長田港から006
昭和シェルの一角。

長田港から007
高松橋から。昭和の時代の旧高松橋は全国でも珍しいハネ橋、兵庫運河の口にかかる。

長田港から008
やや北の、川崎重工の車両部門。

長田港から009
白藤大明神。左の崩れかけた碑は、「吉田新田開墾紀念碑」(明治32年=1899年)。

長田港から010
七宮町の造船所。

長田港から012
出在家町(でざいけちょう)。
足立巻一『親友記』で描かれた友人の詩人たちのうち、亜騎保と岬絃三(田部悦郎)が懲役2年(執行猶予3年)となった。敗戦後ようやく足立に口を開いた亜騎は「ぼくたちにただ一つ共通するものがあるとすれば、表現の自由がほしいということだけだった。自由に詩が書きたい、ただそれだけだった」と語る、内務省の生贄にされたということだ。ただ、同じく逮捕・起訴され実刑判決をうけた姫路の詩人たちのひとり小林武雄はすこし異なる角度から語っている(わたしの宿題)。敗戦後1946年にかれらによって『火の鳥』が、湊川公園下のバラック小屋から創刊された。

詩人事件青騎兵時代013
一代で財を成した大倉喜八郎の別荘があったところが神戸市に寄付された「大倉山公園」。そのなかに、喜八郎と深い親交のあった伊藤博文の銅像があったが1942年金属供出され台座だけが残っている。神戸港から見えたという巨大な銅像だった。

詩人事件青騎兵時代014
1911年、洪水の危険を回避するために流路を付け替えた湊川の旧河川敷(現・湊川公園)の下。

詩人事件青騎兵時代015
湊川公園駅前のパチスロ店開店前。

詩人事件青騎兵時代015-2
ある新興宗教の催し用の弁当づくり。

詩人事件青騎兵時代019
1932年、6人の少年・青年たちで詩の同人誌『青騎兵』創刊。命名は亜騎保(月井奈都夫)、発行所も亜騎保の兵庫駅海側(西宮内町)の粗末な部屋だった、亜騎17歳。戦前は埋立地もなく、海が近い漁村の面影の残る町だったであろう。

詩人事件青騎兵時代016
1933年亜騎、足立ら5人で『牙』創刊。発行所は兵庫駅北側の羽坂通2丁目の長屋に越した亜騎の部屋(「元「発行所」周辺3点)。

詩人事件青騎兵時代017

詩人事件青騎兵時代018

少年時代『親友記』より<アジア太平洋戦争⑤-6>  

1940年日中戦争が泥沼化していくなかで「唯物論研究会」「人形工房」「京大俳句会」「神戸詩人クラブ」など10の文化活動が「破壊活動」とみなされ一斉に弾圧されました。『親友記』(1984年新潮社)の著者・足立巻一は少年時代からの友人たちと詩の同人を結成し、1932年6人による詩誌「青騎兵」を創刊。1937年に神戸の詩人・現代詩同人のゆるやかな交流を目指した「神戸詩人クラブ」が発足(同年盧溝橋事件勃発)、1940年に同クラブの14名が検挙され5名が治安維持法による有罪となった。足立は1938年に召集され山西省にいたため、この事件を知りえず復員後に部分的に分かってきたが、社会的には戦後「神戸詩人事件」として少しずつ世に知られるようになってきた事件でした。神戸の街は、空襲と震災と、そして70~80年の歳月によってかれら「青騎兵」少年たちが屯したときとは様変わりしていますが、その周辺を歩いてみました。

詩人事件前青騎兵時代001
生田神社東門の角の薬局「とらや」を経営していた伯父の家に母とともに世話になった。後年「とらや」跡を訪れたときにはバーになっていたというから、この薬局ではないようですが。

詩人事件前青騎兵時代002
藤吉、一鶴らと遊んだ「生田の森」。ここも激しい空襲にさらされ、楠に大きな傷跡が残っている。

詩人事件前青騎兵時代003
川崎藤吉(歌人)の住んでいた長屋があったところはバー街に。

詩人事件前青騎兵時代004
いくたロード。ここもかれらの遊び場であり、たまり場となった。

詩人事件前青騎兵時代004-2
岩屋駅近くに移った足立は、大きな跨線橋「高橋たかばし」を渡って水道筋の古本屋「博行堂」や喫茶「エデン」に屯して詩を論じる少年だった。

詩人事件前青騎兵時代005

詩人事件前青騎兵時代006
加納町、松本雄治「家族」。この後ろに「水害復興記念碑」がある、1938年7月の豪雨により六甲山からの土石流が神戸の街を襲い多くの被害をもたらした。

詩人事件前青騎兵時代007
水道筋というのは六甲山の干刈水源地から神戸中心部へ供給する水道管が埋設されている道路で、昔からにぎやかな商店街になっていたようです。古本屋はありませんでしたが喫茶店はいまでも多く、最近では珍しくシャッター化していない商店街でした(以下3点)。

詩人事件前青騎兵時代008

詩人事件前青騎兵時代009

詩人事件前青騎兵時代011

詩人事件前青騎兵時代012
都賀川。六甲からいっきに水が流れてきます。明治期に森林を伐採したことも1938年の水害の一因といわれています。

方位 兵庫県<アジア太平洋戦争⑤-5>  

戦争を遂行するにあたって必要となるものは種々ありますが、どこからどこへ向かうべきか?という方位は初歩的に必要なことです。しかしアジア太平洋戦争では必ずしも合理的に進められたのではなかった、南太平洋の島々などではもう自分たちがどこに居るのかも分からない状態がいくらでもあった・・・戦死者の6割以上が「餓死」であったことを考えてみれば推して知るべしでしょう。またたとえば大砲を撃つにしても、方位と距離、そして気象的な諸条件などを把握し計算しなければならない。だが、この項でいうところの方位とは、もっと精神的な要件に関わることでありその痕跡です。現在位置から自分たちが拝跪・遥拝しなければならない方角を知らす道具でありモニュメントです。 

方位001
須磨「みどりの塔」。

方位002
同「みどりの塔」

方位003
同「みどりの塔」日本の支配圏を表す線が刻印されていた。

方位004
神戸護国神社。

方位005
同じく「みどりの塔」、向かって左手の地球儀は阪神淡路大震災により台座から落下した。(写真では)ニュージーランドとオーストラリアの一部が見える。

方位006
三田駅北方の兵庫中央病院 敷地内の「御影石製方位盤」。1939年(昭和14年)に傷痍軍人(結核)の療養所として開設された「兵庫療養所」の報国神社境内にあったもの。敗戦後、結核療養施設を経て現在の病院になった。

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