写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!

「ピースあいち」から 名古屋<アジア太平洋戦争⑥-6>  

名古屋市名東区に「ピースあいち」という「戦争と平和の資料館」があります。「誕生秘話」によると、1993年「戦争の風化が進むなか、戦争の教訓を次世代の平和のために役立てたいとの思いから、有志が愛知県と名古屋市に公的な資料館の建設を呼びかけ」1999年には県と市が「戦争資料館」開設の結論をだしたが地方財政の悪化により行き詰まってしまった。2005年にそのことを聞いた加藤たづさん(当時84歳)が、一生かけて貯めた財産(土地90坪と1億円)を資料館建設のために寄付され、2007年に開設した。いま、約90人のボランティアの手で「館」を運営し、会員の会費と支援の寄付によって財政が支えられています~という、この話だけでも感動的ですが、限られたスペースを有効に使い、戦争を過去のものとしてとらえるのではなく現在(の戦争)につながるものとして訴えかける姿勢がよく伝わりました。

ピースあいちから001
毒ガスを大量に製造し(陸軍は大久野島、海軍は寒川)おもに中国戦線で使用したのは日本軍でした。このような防毒マスクでは防ぎえない皮膚をびらん状にし戦闘能力を奪い、死に至らしめるもの(「黄」)も製造し、一部使用されました。いまだなお中国には日本軍が遺棄した大量の毒ガス弾があり、日本の費用により処分が続けられています。

ピースあいちから003
東邦高校校門すぐにある「平和の碑(いしぶみ)」。名古屋は航空機の一大生産地で、中島飛行機(武蔵野、太田など)とならぶ三菱重工などの工場が集中していた。現在のナゴヤドームを中心にした広大な一帯が三菱重工名古屋発動機製作所で、1944年12月に空襲を受け、300余名の方々が亡くなった。学徒動員で働いていた東邦商業学校の生徒20名と教師2名も亡くなった。1995年、戦後50年にあたり三菱重工(株)から当時の工場の一部を譲り受けて「平和の碑」を建立した。大きく湾曲しているのは煙突の一部分だという、機銃掃射の跡も生々しい。

ピースあいちから004
同。

ピースあいちから007
東邦高校の近くに「平和公園」という広大な公園墓地がある。ほとんどは戦後市内の区画整理で越してきた墓地だが、ほんのわずか国有地がある。そこが日清、日露戦争の陸軍墓地だ(一部は1937年日中戦争が本格化する前の戦闘時の兵士の墓もある)。こちらは兵士の墓。

ピースあいちから008
兵士の墓の横には将校の墓が・・死してもなお、戦後70年を経てもなお階級の差が。

ピースあいちから009
一角には日露戦争時に捕虜となったロシア軍将兵の墓15基がある。これは1990年に、シベリア抑留されていた元兵士(将校かも?)がロシア兵の墓1基を見つけ、その後の調査で(全国に収容されていた捕虜のうち、名古屋で亡くなった)15名の名前も分かり2003年に完成した墓地です。

ピースあいちから010
「ピースあいち」に展示されている本郷新・作「嵐の中の母子像」。「モチーフは広島の惨害」ということです。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://hidsby.blog112.fc2.com/tb.php/2959-be203913
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

QRコード

ご意見・ご感想などこちらから

カウンター