写真集HIDSBY’s Photographs

『樹木派』『アジア太平洋戦争遺跡遺品①②③④⑤⑥⑦』、さらに『田園の憂鬱』が2011年5月完結、『充電式日録』『或日或処』『東京TOKYO』と、てんこ盛り過ぎ!


明けましておめでとうございます、本年もよろしくお願いします!
(まんさくの花)(昨年末に家内が大けが、12/29に手術成功あわただしい年越しとなり今日からベッド上でリハビリ開始、今年は「家内安全第一カミサンノカイフクイチバン」ペースでやっていきますので写真ペース大幅ダウンになりそうですが)

日向湧水 伊勢原<神奈川考②-17>  

わたしだけかも知れませんが、「湧水」とか「源流」というのは大地の割れ目から渾渾と湧きだす美しく力強いイメージを抱いています。しかし、実際に行ってみると一斗(18㍑)ボトルを何本も手にした人々の行列だったり、竜の口から「湧きだし」ていたりしていてがっかりするのがオチですが。神奈川県は西北部に丹沢山塊を抱え、東側の平野部は大きな恩恵にあずかっています。横浜の水道は(山梨県からですが)相模川の大きな支流 道志川に頼っていますし、座間市の水道はその86%が地下水でとてもおいしいのです。今回は、日向川を遡って、日向湧水をたずねてみました。

日向湧水001
日向川中流は暖かい陽射しを受けている、丹沢山塊の東端になります。

日向湧水002

日向湧水003

日向湧水004

日向湧水005
遡るにしたがい、陽射しが山の上に逃げていきます。

日向湧水006
上流にはキャンプ場がいくつかありますが、この時期はひと気がありません。

日向湧水007
16%の坂を押し歩くと汗が出て薪ストーブが熱い・・・のもつかの間、心地よくなります。

日向湧水008
この壁(砂防ダム?)の上に登れば、本物の泉がありそうですが無理はしません。塩ビ管から湧きだしています。


浄発願寺奥の院 伊勢原<神奈川考②-16>  

伊勢原市から厚木市を経て相模川に合流する日向川は、小さな川ですが奈良時代に建立された日向藥師があるので、行った事のある人もいるでしょう。今回は日向藥師側に(北へ)曲がらないで上流に行くと、天台宗弾誓派総本山 浄発願寺ジョウホツガンジの三重の塔があるが、さらに行くと同寺の奥の院がある。ここは「奥の院」ということになっているが、じつは1938年(昭和13年)のどうも台風に伴う山津波で寺が、本堂から何から倒壊・流されてしまったそうです(明治末年、大正12年~これは関東大震災に伴うものであるか?~にも起きている)。再建不能のため1.5キロ下流の現・浄発願寺を造り、「奥の院」とした。江戸時代には殺人・放火の凶悪犯以外の男が駆け込む「駆け込み寺」であったという。

浄発願寺001

浄発願寺002

浄発願寺003

浄発願寺004
4世上人のときに駆け込んだ53人の罪人に造らせた53階段。「復元した」という記事もあった。かなり大規模な山津波(土石流)だったようなのでこの階段が無事だったとは思えず、「復元」が正しいのかも知れない。

浄発願寺006
本堂の跡。

浄発願寺007

浄発願寺008
上の岩屋に行く途中、落ち葉を踏む足音が近づいてくる。女性が一人で日向藥師の方から飛ぶようにやってきた(途中に崩落現場もあるという)。

浄発願寺009
岩屋には、歴代上人らの碑や仏像が納められています、聖域。

浄発願寺010

浄発願寺012


叔母の棺を蓋うとき従妹は泣き崩れました。錦糸町北口の宿に泊まり、前後にスナップした9カットです。モニュメントは「エコー」(ヘ音記号)1997年Loren Madsen、ちょうど見たTVは敗戦直後の佐世保~鹿児島までを撮影した祖父(米軍カメラマンだったが軍に提出しなかった写真1000枚が見つかった。NHK総合)。鹿児島に暮らす孫がその写真を写した場所を訪ね探す、不思議な番組でした。次は錦糸公園、東京大空襲の遺体は処理しきれず何個所かに積み上げた後大きな穴に埋めた(仮埋葬)、ここは1万数千体が埋められた(のちに都の慰霊堂に安置)、北口目の前です。

錦糸町北口001

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錦糸町北口003

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錦糸町北口008

錦糸町北口009

七夕空襲の記録 千葉市<アジア太平洋戦争⑦-10>  

昨日、叔母(わたしの母の妹)が亡くなりました。この手紙は、昨年叔母の部屋から見つかった1945年7月7日「千葉市七夕空襲」(7/6未明からの空襲)の記録です。その空襲で、20歳の叔母が体験した母親(わたしの祖母)の最期を懸命に記録した、大連の姉への手紙です。戦争末期で、郵便が途絶したために送られずに部屋の片隅に72年間眠っていました。とても長いので抄出となります。以下・・・



皆さんお元気ですか?○ちゃんも△△ちゃんも大きくなった事でせうね。◇◇ちゃんにも是非一度逢いたいですね。
電報でお父さんからのお手紙が着いたでせうが、お母さんが七月六日の空襲でなくなりました。
六日に警報が出まして何時もは私は空襲でも起きないのですがその日ばかりはお母さんからもつよく言われたせいもあり起きて服装をととのえ荷物を廊下まで持ち出して居りました。その内タンボの向ふの変電所あたりが火になったと思ふ内に家のまはりの田もはたけも一面火の海になってしまひました。家は待避壕が不完全で使用できないので家のすみに四人かたまってました。落下の音がサーッときこへると地面にふせて居りました。××さんの家も皆 火柱が立ちました。その内に家の風呂場に爆弾が落ちてもへはじめましたが幸ひにも家のかたまり四軒でもへはじめたのは私達の家だけだったので前やおとなりの人も手伝って消して居てくれますので私と母とで廊下の荷物をみな池のそばまではこび出しました。全部はこび終わった時に母が□□ちゃんのそのリュックサックを向いの◆◆さんのはたけまで持って来なさいと言ひ次で私もリュックサックをそちらへ持って行った時です。たしかその時すごい落下音と一緒に地ひびきがした様にも思へるし落下音もなにもしなかった様でもあるしはっきりしないんですが 何しろ何時も一緒にかたまった三人がお母さん一人になった時です。急に池のそばで「□□ちゃんのお母さんがやられたよ、やられたよ」と大きな声がしましたのでおどろいて行ってみますと庭と池の間の所に家の方へ頭をむけてあほむけに倒れて居ります。お母さんはでも元気でおなかと足だと申しますのでみましたら右の横腹と右足をやられてます。すぐに止血と消毒をすればいいんでせうけど何しろ急だし あたりは火の海その上たへずサーッと言ふ落下の音はするし ただオロオロするばかりで「お母さん大丈夫?大丈夫?」ばかり言ってました。母は元気で焼夷弾のやけどらしく「ヒリヒリするからゴマ油でもぬっておけば大丈夫だよ、油のきれを持って来てくれ」と言ひますので布を持って行きますとそれでお腹のきづを自分でおさへて「□□ちゃんは大丈夫かい?お父さんは?家の火は」と聞きます。□□ちゃんは◆◆さんの家にいるしお父さんは近所の人と一緒にけしてるから「もう大部分消へたよ」と言ひますとNの方は××さんはと聞きますので「どっちももへてるよ」といふ風にとても元気です。<中略>その内に胸がくるしいと言ってそばにあった細い竹をつかみました。そして「私はもう死んでもいい」などと言ふのです。「そんな心細い事は言わないでよ」と私がいふとそれには返事もしないで目をつむってます。そして後は胸の事はいはず足の事ばかり言って私が大丈夫かいときくのに大丈夫大丈夫と答へました。その内大雨が降ってきましたので荷物を家の中へはこびましたがお母さんはうごかせないので傘をさしかけて居りました。その内敵機も去り家の火も消えたので隣組の人がタンカで大学(現千葉大付属病院)まではこんでくれる事になりましたが まだ大学までの家が燃へているので一応家の中へ入れました<中略・大学病院で>室に入ってみますとその下級生が「まあこの方Hさんのお母さんならよく知っているんだけどあまりに顔がかわってしまったのでわからなかったわ、この室は一番おもい人の所よ、さっき診察のときにみたけど足はえぐられて骨がみえてるのよ、でも足よりおなかがいけないんですって」と言いました。お母さんはうすめをあけて口を少しあけてすいこむ息ばかりではくいきがないんです。ハッハッとくるしさうにいきをしています。耳に口をつけてお母さんお母さんとよんでも聞へないのです。そのいきも私が行ってから二三分でなくなってしまいました。本当に悪夢の様です。
病院のベットでしかも多くのうめき声のなかで最期の水ももらへずに又こんなに一杯の子どもがいるのにたった私とお父さんと下級生の人にだけみもられてドロと血にまみれたモンペにつつまれてぬれたフトンの上に死んで行きました(「七月七日九時ごろ」)。
                        七月三十日
<以下略。全14枚の手紙となっています>

土管と甕の街 常滑<アジア太平洋戦争⑦-9>  

常滑は日本有数の古窯のひとつですが、日用陶器のほかに大型の陶器生産が中世から盛んで、明治維新以降の近代的都市建設のための土管=上下水道などで栄えました。戦時中は、B29による空襲が予測され、その撃墜のためのロケット戦闘機「秋水」(モデルはナチスのロケット戦闘機)が開発されました。その燃料貯蔵庫あとは千葉の柏に残りますが(既報)、1944年軍部(=政府)から燃料貯蔵のための大甕生産が依頼され、伊奈陶(現LIXILリクシル)を中心に市をあげて製造に特化しました。「秋水」はテスト飛行で失敗し実用はなりませんでしたが、常滑の「燃料大甕」は街のいたるところに置いてあります。もう不要となった土管も壁や法面に利用されています。わたしが初めて常滑に行ったころは、便器が3~4階建ての公団住宅ぐらいにうずたかく積み上げられていたものです。

常滑001
「陶磁器会館西」交差点角(駅前)。

常滑002

常滑003

常滑004

常滑005
「栄町7丁目」交差点東(路地裏)。

常滑006
陶の森資料館。600リットル(ぐらいか?)の「呂号大甕」ロケット戦闘機「秋水」用。

常滑007
同資料館内、2000リットルの「呂号大甕」ロケット戦闘機「秋水」用。

常滑008

常滑009

常滑010
Frank Storm 1988年作。1985年~2011年まで、世界の陶芸家を常滑に招き40日間一般家庭にホームステイし作陶した。

常滑011
「呂号大甕」は看板にもなっている。

常滑012
喫茶壺の看板は3000リットルという巨大な呂号大甕。

     ◇       ◇       ◇       ◇       ◇       ◇       ◇       ◇

常滑013
伊奈陶のロゴは菱形に「IS」だったが、敵性語ということで改められた。

常滑014
結果(戦時中は)カタカナの「イ」と「ナ」を組み合わせたこのロゴが使用された。

相模川の「ヤツボ」 相模原市大島<神奈川考②-15>  

私事で申し訳ありませんが、相模川の水で産湯をつかった友人Yくんが亡くなり3年が経ちます(いわば巡礼です)。1969年からの彼との付き合い以前は、小田急線でいえば町田ぐらいまでがぼくの「シマ」でした。自宅に電話すると、お母さんが出てよく「上京しています」という返事にびっくりしたものでした。相模川中流の「上溝」「田名」あたりは水運が盛んな時代には賑わったところでしたが、いまでは農地が宅地化と工場化がすすみ複雑な景観を見せています。今回はその少し上流「大島」の、河岸段丘下方に湧きだす「ヤツボ」が残っているので訪れました。「大島中ノ郷のヤツボ」「大島水場のヤツボ」「古清水上場のヤツボ」の3個所です。湧き水を一坪ぐらいの窪地に溜め、炊事、洗濯などに日常的に使ったそうですが、現在では地域の生活とははなれ「保存会」の方々が維持しているのがやっとのようでした。「ヤツボ」の言葉の由来は、谷津(谷戸、谷)だと思います。

相模川大島001
秋はやはり菊、Yくんにささげよう。

相模川大島002
河川敷を戦後に開墾したものと思われる(昭和32年建立の「開田記念碑」がある)。

相模川大島003
新旧小倉橋(道志、宮が瀬方面へ)。

相模川大島004
大島水場のヤツボ。

相模川大島005
大島水場のヤツボすぐ下、沢上からの水の合流部。

相模川大島006
老婦人の庭。

相模川大島007
農業用水か?取水口。

相模川大島008
ここは「ヤツボ」ではないが、じんわりと水がしみ出している。

相模川大島009
大島地区の氏神「日日神社」、ケヤキ、ヒマラヤスギ、クスノキ、サクラ、タブ、カゴノキなどが大木化して、新任の神主さんが剪定の予算がなくて頭を抱えていました。

相模川大島010
古清水上場のヤツボ

神田古本まつり 神保町<東京TOKYO④-4>  

7月に神保町の韓国書店「チェッコリ」でアン ソンミン氏のパンソリを聴き&見てきましたが(既報)、きょうはその続編でした。同店は古書街の真ん中にあり、辺りは10/27から「神田古本まつり」をやっていて、きょうから3連休 さいごの盛り上がりを見せているようでした。午前中はあまり人は出ていませんでしたが、午後にはけっこうな人出です。「5,000円以上お買い上げの方は送料無料」といったサービスもしているので昔のように風呂敷包みを抱えてという人は見かけません。かつては神保町交差点から西側(靖国側)はあまり古書店のない地域でしたが、現在はそちら(神保町~専大前)の方が賑わっています。

古本まつり001
神保町交差点角(岩波信山社:昨年11月に倒産)に出店した書店の「書き割り」的レジ。

古本まつり002

古本まつり003

古本まつり004

古本まつり005

古本まつり006

古本まつり007
半蔵門線神保町駅は本(国立劇場のある半蔵門駅は緞帳の3色=定式幕カラー)でしたね。

二週間ぶりの晴れ間に 厚木七沢<神奈川考②-14>  

真夏のような広島から帰ってきたのが13日(金)、新横浜駅に着くと雨そして寒い。それから2週間、間に台風21号襲来をはさんで寒い雨が続いた。持病の腰痛も悪化して動くのも大変、きのう(/26木)ようやく晴れたのでリハビリを兼ねて厚木の七沢に向かった。わが家のほうから見る大山の稜線の美しさに見とれ、真っ正面の富士が雪化粧、でも気温は徐々に上がってきた。日光ではこの週末から紅葉本番ということだが、箱根・丹沢あたりでは北関東や東北のような息を呑むほどの紅葉は見られない、況んや厚木においてをや。センダンは青々と繁っている。でも、トチが黄葉しイイギリが赤い実を沢山つけ秋が一歩々々深まりつつある。
つぎは亡くなったYくんを偲んで、相模川を自転車で走ってみよう、沈下橋はもうないだろうな・・・。


七沢の秋001
センダン(栴檀)

七沢の秋002
トチノキ(栃)

七沢の秋003
イイギリ(飯桐)

七沢の秋004
アケビ(通草)

七沢の秋005

七沢の秋006

七沢の秋007

七沢の秋008

七沢の秋009

七沢の秋010
クサギ(臭木)

七沢の秋011

七沢の秋012

米軍写真外辺部<アジア太平洋戦争⑦-8>  

またまた前々々作「380m(旧)日本銀行広島支店 袋町」の米軍撮影の写真に戻ることになりますが、ご勘弁を。「被服廠倉庫」は右上比治山の南すぐ、「福島地区原爆犠牲者慰霊之碑」は平和大通り(写真右端の道か?)の手前側、「日本麻紡績給水塔」は慰霊碑からさらに西へ行った西広島(己斐)、「逓信省電気試験所広島出張所」は横川駅の北口近く 改修して検査場として2011年まで残っていたが現在はスーパー 一角に壁面と敷石を使ったモニュメントと案内板がある、そのすぐ北に「久永金紙押紙工場」が改修・耐震工事などをして20数名の従業員を抱えて活躍していました、最後はその工場から東へ(広島駅方向へ)川を渡りアストラムラインをくぐってまた川を渡ったところの安楽寺、本堂が被爆建物だが被爆時大きな枝が本堂を突き抜いたというイチョウの炭化した傷痕を載せました。

米軍写真外辺001
2670m広島陸軍被服支廠倉庫1~4号棟(出汐)までが残っている。「L」字形に配置され「L」の縦棒にあたる部分が1~3号棟(県が管理)、横棒が4号棟(財務局が管理)、各棟とも100m近くある長大なレンガ倉庫です。劣化が激しいため倉庫の中には入れませんが県庁で鍵を借りれば見学可能です。

米軍写真外辺002
その内部。軍服や軍帽などの倉庫。一般市民国民が窮乏生活を強いられ、「逓信病院焼け跡」で救護・治療していた医師も患者も丸裸同然だったが、軍隊は意外とあらゆる物資を溜め込んでいた。蜂谷院長の「ヒロシマ日記」・・「工兵隊にはたくさんな物がある。無数の鋸、鉈、航海ランプ(略々)毛布の山、軍服の山、シャツ、ズボンの山、被服の山々の間に皮革品」「市民全部が着ても余るほどあるように思えた」と、病院近くの工兵隊倉庫の話ですが。

米軍写真外辺003
窓は頑丈な鉄扉になっているが、爆心側(北西)の扉の多くは湾曲していました。

米軍写真外辺005
2000m「福島地区原爆犠牲者慰霊之碑」(福島町) 平和公園を中心に学校や地域の慰霊碑が数多くあります。占領下では「原爆」の文字は使用禁止でした。

米軍写真外辺006
2830m「日本麻紡績給水塔」(己斐本町)。現在は浜田樹苗園の敷地に立っています。

米軍写真外辺007
樹苗園のシブガキ。

米軍写真外辺008
1800m「逓信省電気試験所広島出張所」(三篠町)跡のスーパー、試験所の建物はもうありませんが逓信病院を設計した山田守の作ですので、窓を大きくとってそっくりな建物でした。

米軍写真外辺009
2200m「久永金紙押紙工場」、真鍮などを使用して金箔貼りの紙などを作る特殊な技術をもった工場です。おもては落ち着いた画廊のようですが一歩入ると複雑な階層になった町工場でした。これは排気筒、現在修復して現役使用していますが「被爆建物」の「建物」枠に入らないので自力で補修し保存しているとのことでした。昔の石灯籠や庭石も現建物の礎石として残しています。

米軍写真外辺010
焼け残った倉庫も健在でした。この倉庫はかなり傷んでいたので、(たぶん北の)原小学校の体育館を譲り受けて、体育館にすっぽり包まれているという、二重の被爆建物でした。整理整頓清潔な工場で、予約なしで行ったのですが(要予約)会長が自ら丁寧に案内してくださりました。

米軍写真外辺011
体育館の面影を残す階段を行ったり来たり、上部右下に下ると倉庫の入口でした。

米軍写真外辺012
2190m「安楽寺被爆イチョウ」(牛田本町、広島駅の北方)。

米軍写真外辺013
安楽寺近くの神田橋南詰、白島まで歩く。


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